アメリカで働くにはビザが必要です。観光旅行であれば、ビザなしで簡単に入国できるアメリカ。ついつい簡単に就労ビザも取れると思いがちですが、実はなかなか困難です。特に9-11以降は審査も厳しくなっており、許可にかかる手続きが従来以上に煩雑かつ長期化したり、従来だったら取れたであろうビザの取得が拒否されたりしているケースも耳にします。
今回は、シリコンバレーで働く7人がニュースレター座談会に集まり、ビザを取った経緯について、話し合いました。以降、話し合った結果に一般動向を加えてまとめたものです。後半には、こぼれ話的体験談も掲載しています。なお、本文章は、あくまでJTPA関係者の経験に基づくものでしかありません。ビザ・グリーンカード取得方法が法的に正しいかどうかは、必ず専門の弁護士にお問い合わせください。


一般的にシリコンバレーで働くためには、ビザかグリーンカードのいずれかが必要です。ビザにはいろいろな種類がありますが、シリコンバレー企業で正社員として働くには、その企業に「この人は得がたいスキルがあるから是非ビザを出して欲しい」とビザをスポンサーしてもらう必要があります。しかし、このビザ申請プロセスは費用も時間もかかるため、雇用する企業にとっては負担です。また、ビザが出るまでの数ヶ月の期間(場合によってはそれ以上)は、アメリカで働くことはできないため、雇用側が採用の決定をしてから、その社員が働き始めるまでにずいぶん時間がたってしまいます。「採用が決まったら翌週から仕事」ということもまれではないシリコンバレーでは、なかなか受け入れがたいプロセスでもあります。
グリーンカードに関しては、プロセスには数年かかる一方、一旦取れれば、いくつかの制約条件はあるものの、基本的に自由に仕事ができるようになります。通常はビザを取って働きながら申請をするのが普通ですので、まずはビザのハードルを乗り越える必要があります。
そんな中、どうやってみな就労ビザを手にしているのでしょうか?以降、最も取りやすいものから、確率の低いものへと順番に並べてみました。
1) 留学、そのままSV企業に就職
4年制大学や大学院など、一定の基準を満たす学校に留学すると、卒業後1年間アメリカで働くことができるpractical trainingというステータスを得ることができます。(厳密には「practical trainingに応募できる資格ができる」ですが、たとえばStanford大学を卒業して、practical trainingを拒否されることはまずありません。)practical training期間中に仕事振りを認めてもらえれば、就職先の会社に本格的に就労ビザをスポンサーしてもらうことができます。
類した方法でアメリカで働くようになった例:
https://www.jtpa.org/interview/000138.html
https://www.jtpa.org/interview/000025.html
https://www.jtpa.org/interview/000014.html
https://www.jtpa.org/interview/000015.html
2) SV企業(米国企業)の日本支社に就職、その後社内で転籍
日本で、まずアメリカ企業の日本支社に入社、そこで実績を挙げた上で、本社に転籍します。シリコンバレー企業は、通常人事権は部門が握っており、人事部が一括するものではありません。ですから、人事が部門から部門への人の移動を決定することは稀で、部門を移る場合、まるで外部からの一般応募と同じように改めて新しい部門の面接を受けることになります。とはいうものの、同じ社内であれば、仕事振りの評価などもしやすく、ゼロからはじめるよりは容易なケースが多いでしょう。
類した方法でアメリカで働くようになった例:
https://www.jtpa.org/interview/000133.html
https://www.jtpa.org/interview/000133.html
https://www.jtpa.org/interview/000026.html
https://www.jtpa.org/interview/000016.html
3) 日本企業の駐在員としてSVへ、現地企業へ転職
これは、まず駐在員ビザでシリコンバレーで働き、そこで得られた人脈や経験を通じて現地企業に転職するケースです。駐在員時代にグリーンカードを取っておけば容易ですが、単なるビザで駐在員をしている場合、結局ビザの申請をしなおさなければなりません。とはいうものの、仕事振りのわからない外国人である日本人を海の向こうの日本から雇うよりは、雇用側企業にとってもリスクが低く、ビザをスポンサーしてもらえる可能性は高いといえるでしょう。
類した方法でアメリカで働くようになった例:
https://www.jtpa.org/interview/000019.html
4) 日本から直接SV企業に就職
ビザ申請の労を押してでも雇用したい、と雇用側が思えば、日本からでも直接雇用されることがあります。
類した方法でアメリカで働くようになった例:
https://www.jtpa.org/column/000089.html
5) SVで起業
起業自体が困難ですが、不可能ではありません。自ら投資するのか、主に日本から投資を受けるのか、主にアメリカからの投資を受けるのかで取得できるビザのオプションは異なりますし、良い弁護士を探すことは必須ですが、ビザ取得は可能です。
類した方法でアメリカで働くようになった例:
https://www.jtpa.org/interview/000028.html
https://www.jtpa.org/interview/000027.html
6) アメリカ人と結婚してグリーンカードを取得
番外編ではありますが、グリーンカード取得方法としては最短かつ最も容易です。まっとうな収入のあるアメリカ市民と結婚すれば、たいていは取得できます。9-11前は、日本のアメリカ大使館で申請すれば、数週間でのスピード取得も可能でした。(ただし、カリフォルニアでの申請には当時から1年以上かかっていましたが)
7) グリーンカードに当たる
さらに番外編ですが、グリーンカードの抽選に当たる、という方法があります。
■座談会参加者の経験
Aさん:30代女性。アメリカに来たのは95年、シリコンバレーに97年に来て、今はソフトウェア企業にエンジニアとして勤務。
奨学金をもらってF1ビザでアメリカの大学院に留学。修士課程を修了後、Practical Training でシリコンバレーの企業に就職。就職先企業がH1ビザをスポンサーしてくれることになったが、学生時代に知り合ったアメリカ人と結婚したのでグリーンカードを取得することに。現在はグリーンカードホルダー。
Bさん:30代男性。アメリカに来たのは93年。
日本の大学・大学院でコンピュータサイエンスを専攻、「コンピュータをやるならシリコンバレー」と、大学院卒業後「シリコンバレーの日系企業が現地社員として採用してくれるかもしれない」というあやふやな状態のまま、だめもとでF1ビザ(学生ビザ)で語学学校に留学しつつ就職活動をすることにした。(注:「就職するつもりがあって語学学校にいく」というのは違法で、見つかると大変なことになります。特に9-11以降は絶対避けましょう。)
渡米してから面接、1週間くらいで採用OKが出て、H1(就労ビザ)が認可されるのを3ヶ月待って(注:1993年当時。今はもっとかかります)正式に仕事を開始した。途中でE1に切り替えた(注:Eは企業から派遣される駐在員や投資家に発給されるビザ。E-1貿易家とその家族、E-2は投資家とその家族に出ます。)
さらに、その後、同じ日系企業にスポンサーしてもらい、グリーンカードを取得した。
グリーンカード申請に関しては、いろいろトラブルがあり、申請のやり直しをするなど大変だったが、最終的にグリーンカードを取得した二度目の申請に関しては、1999年に申請、2001年の8月にLabor Certificateを取得、2003年5月に取得。(注:最近はもっとずっと時間がかかります。)
Cさん:20代男性。半導体系シリコンバレー企業に今年の4月に就職。
日本での大学院の教授が就職先企業の日本支社の人と知り合いで、その教授の紹介で日本支社長と面接。しかし日本支社は営業のみで技術者は採用していないということで、シリコンバレー本社に紹介され、本社で面接した。採用決定から仕事を始めるまで時間があったので、その間にH1ビザを会社に申請してもらった。
採用のオファーを受諾するに当たっては、大学時代に研修旅行でシリコンバレーに来たことがあって、行ってみたいと思っていたのが後押しになった。イギリスに2-8歳の間いたので、英語はそれほど問題ない。会社に外に日本人はいないが、今のところ快適。
Dさん:20代男性。2002年よりスタンフォード大学の博士課程在籍中。
F1ビザで留学中。日本の大学に入ってすぐ「大学が勉強するところでない。こんな腐ったところで大学院に行っても仕方がない」と思って、すぐに留学の準備を始めた。
具体的には、英語の勉強。英会話の学校に行ったり、リスニングマガジンという月刊誌で自習したりした。さらに、大学4年になってからGREやTOEFLなど、留学のための試験勉強を真剣に始めた。
スタンフォードは、自分の専攻分野に強く、かつシリコンバレーに興味があったので留学先として選んだ。
Eさん:40代男性。アメリカに来たのは94年
日本で、半導体パッケージング関連メーカーの技術開発部門で働いていた。その会社が出資していたシリコンバレーの半導体系ベンチャーに出向する形でシリコンバレーに来た。滞在中に、ベンチャーはより大手のシリコンバレー企業に買収されたが、買収した企業にそのまま出向を続けることになった。最初のベンチャー時代からH1ビザを会社にスポンサーしてもらい取得、5年目に入ったところで、
「さらに数年はアメリカにいて欲しい」
といわれたが、最長6年が期限のH1ビザでは不可能ということでグリーンカードを取得することになった。グリーンカードの申請開始は98年中頃、labor certificateが取れてから、1年足らずの2000年末に取得、約二年半でグリーンカードが取れた。
ところが、グリーンカードを取得してから数ヵ月後、会社の方針が突然変わり帰国命令が出た。「シリコンバレーで仕事を続けたい」と思ったが、いろいろ義理もあったので、一旦単身で日本に帰って約1年間事業立ち上げの仕事を終え、2002年に辞職して帰米、以降独立、シリコンバレーを拠点として仕事をしている。
戸谷ニュースレター編集長:30代男性。アメリカに来たのは1997年。最初は留学、その後建設会社に在籍5年
日本で5年働いた後、一念発起してアメリカの4大に留学。現在はH1を破棄し、グリーンカード申請中(Applicant for Permanent Residency)。
(詳しい経緯はhttps://www.jtpa.org/column/000108.htmlをご覧ください)
渡辺JTPA代表:30代女性。95-97年F1でスタンフォード大学留学、2000年にアメリカ市民と結婚してグリーンカード取得、以降アメリカで働く。
(経歴はhttps://www.jtpa.org/member/000040.htmlをご覧ください)
■こぼれ話
グリーンカードの抽選は実は結構当たる?
「シリコンバレーのソフトウェア企業で、グリーンカード抽選方法を会社でセミナーしたりしていた。そのほうが会社でスポンサーして申請するより安上がりだと思ったらしい。でも、確率が悪かったのか、一回だけで終わってしまったけど・・・」
「ただ、日本人では、グリーンカード抽選に当たった人の話は結構聞く。」
「グリーンカードに当たった日本人を何人知っている?」
(最近渡米したばかりの一人を除き、みな、1-3人という答え)
「一人一通しか応募できない、という決まりだけど、どうせ当たらないだろうと、ルール違反の複数応募をしたところ、2つ当たってしまい失格になった日本人の話も聞いたことがある。」
「以外に当たるんだ。次回は応募してみよう。」 「グリーンカードに当たる確率を二倍にする意外な方法は結婚。グリーンカードをもらう時点で結婚していると、結婚相手も自動的にグリーンカードがもらえるから、一人一人別に応募するより、結婚して双方がそれぞれ応募すれば、確率は二倍。知り合いが、このためにだけ結婚した。でも、結局形だけでなく本当に結婚したけれど。」
「偽装結婚は違法だけれど、『グリーンカードの認可がおりそうになったら、さっさと結婚する』というのは大事だね。グリーンカードホルダーになってから結婚、パートナーのグリーンカードを申請すると何年もかかるから。抽選に限らずグリーンカード全般で、このタイミングは良く考えたほうがいい。」
「抽選だけど、趣味で応募しないように。『当たってしまったが、結局良く考えたらいらない』というようなことだと、本気で挑戦している人のチャンスを奪うことになる。」
「10年トライし続けて、やっとの思いで当たったという人もいるし。」
就労ビザvs.グリーンカード
「自分はとりあえず経験をつむためにシリコンバレーに働くことにしたけれど、一生いるつもりはない。みんな一生いるつもりでグリーンカードを取っているのか?」
「いや、グリーンカードは永住権とはいうものの、一生いるためだけに必要なのではなく、落ち着いてちゃんと仕事をしようと思ったら必要なステータス。」
「そうそう、アメリカで働く場合、来るにはいろいろな方法があるが、仕事をし続けるにはグリーンカードが必要。投資家ビザ以外だと、普通の就労ビザは最長6年しか更新できないし。」
「それに、ビザは普通会社に紐付いているから、転職したら取り直し。だから、転職や独立のいいチャンスがあってもなかなか実行できない。周りのアメリカ市民・グリーンカードホルダーが、転職でどんどんキャリアのステップアップをしていくなか、自分はビザスポンサーの会社から動くことができない、というストレスがある。」
「そうかな?うちの会社は市民でもみんな長く働いている。10年以上いる人も。」
「そういう会社も確かにあるけど、この辺では同じ会社で4年働いたら長いって感じがするほうが普通じゃないかな。」
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というわけで、今回の座談会の意外なポイントは
「グリーンカードの抽選は、日本人だったら思ったより当たりやすいかも」
でした。
なお、今回の座談会参加の中には、少々危ない橋を渡ってきている人たちもいますが、嘘をついて入国したことが発覚すると、一生アメリカ入国が難しくなる可能性もあります。特に9-11以降はどんどん厳しさが増していますので、心して正道を歩んでください。
また、ビザは「アメリカで働くための単なる書類」ではなく、多くの人が苦労して取得する「特権」です。ビザ取得が簡単といわれる日本企業駐在員ですら、なかなか認可が下りず苦労している例は結構ありますので、お気をつけください。
なお、ビザについては、JTPAで行った移民法セミナーの議事録もご参考ください。
番外編
以下、当日は不参加の方からメールで寄せられた、ビザ・グリーンカード取得経験談です。
中村孝一郎さん:30代男性。
文部省からの派遣後に転職。
(経歴はhttps://www.jtpa.org/column/000089.htmlをご覧ください)
『日本の国立機関からStanfordなどのアメリカの研究機関に派遣で来た人が、アメリカで就職しようとすると、J1ビザのTwo Years Ruleが障壁になります。TYRは、J1ビザホルダーの米国滞在中の経費が、日本政府もしくは米国政府から支弁されている場合に、J1ビザの発給の根拠となる交流訪問が終了した後、最低2年間日本に(物理的に)在住しなければ、新たなUSビザの発給は行われないというものです。一言で言えば、「国からお金を出してもらったんだから、2年間ぐらいは恩返ししなさい」というものです。TYRの対象となっているかどうかは、ビザを見ればわかります。Subjected to 212(E)とあれば、TYR(移民法212条E項にて定義)の適用対象です。とは言え、アメリカでやりがいのある仕事が見つかれば、そのままいたいもの。そういう場合には、以下の二つの方法でTYRを回避することができます。
(1)Waiver of TYR
アメリカ国務省にTYRの免除を申請するものですが、これには在米日本大使館から”No Objection Statement”と呼ばれるものを発行してもらう必要があります。一言で言えば、「もうこの人は日本で恩返ししてもらう必要はありません」という国務省宛の手紙です。waiverの最終的な判断はUSCISで行われ、申請にはいくつかのステップがありますので、以下のページをご覧ください。この方法は、米国在住中に可能なものです。日本国内での方法は、私は知りません。http://www.us.emb-japan.go.jp/j/html/file/j_visa_waiver.htm
(2)O1ビザ
TYRの期間中でも、例外的に取得できるビザがO1ビザ、visa for an individual with extraordinary abilityです。これはアメリカの国益に適う能力を持っていることを証明すれば、TYRの適用を猶予して取得できるビザです。このビザの申請は、スポンサー(雇用主)が行うので、就職先があることが必要条件です。申請の際には国際的学術誌での発表論文、それらを参考文献として引用している論文のリストおよび写し、受賞リスト、著名な教授もしくはよく知られた企業のマネジメントクラスの人からの推薦状などが必要となります。このビザは有効期間が3年、その後ビザ発給の根拠となった職業についている限り、1年毎にビザの更新を何回でもできます。注意点としては、O1ビザの取得はTYRの免除を意味するものではないということです。O1ビザで滞米中は、TYRが猶予されているだけですので、他の種類のビザへの変更、グリーンカードの申請を行うためには、日本に帰国しTYRを満たす日数だけ日本に在住するか、もしくは前述のwaiver of TYRを行う必要があります。
私の場合は、文部省からの派遣でJ1ビザでStanfordに滞在した後に、日本に帰国しました。それから数ヵ月後に、アメリカの企業からジョブオファーがあった際、TYRが適用されている旨伝え、転職は難しいと伝えたところ、企業の弁護士から(2)のO1ビザでの渡米の方法があると提案されれましたので、O1ビザ取得に6ヶ月ほどかかった後に転職しました。転職後にグリーンカードの取得は雇用ベースではなく、自ら行う(self-petition)ことにしたので、そのためにはWaiver of TYRが必要となり、6ヶ月ぐらいかかってwaiverを取りました。グリーンカードのself-petitionに関しては、基本的にはO1ビザ申請と同じような申請書類の準備が必要となりますが、これはまた何かの機会に。
なお、以上は私の経験にもとづいたもので、現在の移民法下での同様の申請、手続きは保証しかねますので、ご了承ください。』
東原朋成さん:40代男性
『平和だったころの話しです。
日本DECで働いていましたが、80年代最後にDECのUS本社に、L1ビザでやってきました。90年代初頭に、日本DECは日本の新聞を騒がした大リストラ(その頃の日本はバブル期)を行いましたが、その大量解雇が実施された時、DEC本社へのトランスファーをオファーされ社内転職することにしました。
DEC本社採用となるとL1ビザは無効になります。L1からH1ビザへの切り替えは法律上はできないことになっていたらしく、新たにH1ビザを申請しなくてはならない。ということは、H1が許可させるまでは不法滞在になってしまうかもしれない。こうした際、一般的には「ややこしいことになるな」と想像されるかもしれません。
が、実際は いきなりグリーンカードの申請をしました。L1からグリーンカードというのは、当時はよかったのです。DEC本社のあったマサチューセッツ州のFederal Officeで、まず一次審査の為の書類を提出しました。これには例えば戸籍謄本の英文訳だとかいったものは不要でした。そういった書類は2次審査申請のときに提出です。会社のビザ担当弁護士、ビザ担当スペシャリストと急遽グリーンカードの申請書類をまとめ(大体1週間)書類を郵送した(1次審査書類は全て郵送することになっていた)のですが、弁護士も驚いたことに、郵送から2週間で1次審査をパスしてしまった。当時H1よりグリーンカードが簡単と言われていたそうなのですがそれでもこれは記録的に速く、2次審査の書類はまだ完成してもいなかった。
2次審査には指紋採取その他があるのですが、マサチューセッツでは少なくとも当時は2次審査書類を出すときに同時に指紋採取が行われました。また2次審査書類を提出したときにインタビューの日取りもきまります。きっちり3ヵ月後というのが当時は常識だったようです。3ヵ月後のインタビューもインタビューというより宣誓。「はい右手をあげて」という程度で、ほとんどインタビューらしきものもなし。
以上、都合4.5ヶ月でL1ビザ就労者からグリーンカードホルダーになったといういかにも”平和なころ”のアメリカでのおはなしです。
ここまで早く物事が進んだのは、DEC社がマサチューセツで一番の巨大企業で、州内での政治力がものすごく強かったことにもあります。2次審査の書類提出のおり、担当官に脅されたのですが
「なにかあったら書類を出さないですぐ電話しろ」
と弁護士から言われていたので電話をすると、窓口にマネージャがやってきて
「こいつの書類はなにもいわず受け取れ」
と担当官に命じていました。担当官は、マネージャが去ってから
「Big companies never listen to me」
と言っておりました。多分この政治力がスピード審査で随分ものを言ったのではないでしょうか?