中町さんは、シリコンバレーにロングタームで滞在している数少ない日本人弁護士でいらっしゃいます。日本人で、シリコンバレーでの起業を考えている人たちを助けるという形で社会に貢献したいというお気持ちや、コミュニティー作りにかける情熱を強く感じました。また、弁護士というご職業ゆえに、言葉とカルチャーという高いハードルを乗り越えるために、大変な苦労をされたというお話も聞くことが出来ました。(インタビュー日:2002年6月17日)

プロファイル

1968年、東京生まれ。
1991年、京都大学法学部卒業。
1990年、京都大学4年在学中に司法試験合格。
1993年4月、2年間の司法修習を経て弁護士登録と同時に東京の森綜合法律事務所に所属。
3年半に亘り国内または国際関係の幅広い分野において数多くの取引案件及び訴訟案件を担当。
1996年夏、米国留学。
1997年5月、ニューヨーク大学(NYU)ロースクール法学修士号(LL.M.)を取得。
1997年11月、ニューヨーク州、1998年5月にカリフォルニア州の各バーイグザムに合格。
1997年9月、モリソン&フォスター法律事務所(サンフランシスコ、ワシントンD.C.)に勤務(1998年8月まで)。
1998年10月、カークランド&エリス法律事務所(シカゴ)にて客員弁護士として勤務(1999年9月まで)、アメリカ国内及び日米間の知的財産取引、M&A、証券発行、特許訴訟等の分野で多様な実務を経験。
1999年10月、ウィルソン・ソンシーニ・グッドリッチ&ロサーティ法律事務所にて正規のアソシエイトとして勤務を開始する。

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インタビュー

Q: 現在のお仕事について簡単に教えてください。
A: 現在は、知的財産に関わるライセンス・共同開発等の契約取引、ベンチャー・キャピタル、M&A、ジョイント・ベンチャー、証券発行などの分野を担当し、日米間のクロス・ボーダーの案件につき豊富な経験を持っています。近年はテクノロジー、スピン・オフを含む、日本からアメリカへ進出しシリコンバレーでアメリカ的なスタイルでスタートアップ(ベンチャー企業)立ち上げを試みる企業関係の国際的テクノロジー・トランスファーに焦点をおいています。
Q: 弁護士は幼い時からの夢だったのですか?
A: いいえ、高校までは、物理や数学が一番好きでした。親戚に弁護士や法律関係で働く人もいなかったので、弁護士という仕事にはなじみが全くありませんでした。だから大学で物理を勉強するだろうと高校2年までは考えていました。

3年に進むときに、大学で物理を勉強した後、一体どういう仕事に就くことになるのかをよく考えてみたのです。周りの人に聞いてみると、大方、学校の先生か研究者だろうということでした。しかし、いずれも自分が社会人としての一生をかける仕事として満足のいくものか確信が持てませんでした。研究室にずっとこもって研究するよりも人と常時接する仕事の方が自分に向いているに違いないと直感的に思いました。そこで大学を出た後の職業という観点からもっと広い範囲で、自分にとって魅力的でかつ社会的にも意義の高い仕事があるかどうか、人にも相談しながら思いつく範囲で探しました。大学は僅か4年のことですが、仕事となればその後40年かそれ以上の話ですから、相当真剣に悩みました。

医者や建築家なども考えましたが、最終的に、自分は言いたいことをはっきり言ってしまう人間だとよく分かっていたので、「年齢云々にあまり影響されず、自分が正しいと信じることを言える仕事」というイメージで弁護士を目指すことに決め、理系から文系に移って法学部に進むことに決めました。17歳の時です。

日本の会社にありがちな、若いうちはとにかく上司の言うことに従って動いていればよい、下手に正論などを言おうものなら生意気だ何だのということでマイナス点をつけられる、というカルチャーには自分が到底なじめないことはその頃からよく分かっていました。弁護士であれば、自分の信念を理由なく曲げることを強要されるケースは少ないに違いない、またもし運良くよい裁判に勝つことができれば少しは世の中が良くなることもあるかもしれない、などということを漠然とですがその頃既に考えていました。

Q: 法学部に進学されてから、実際に日本で弁護士になるまではどのような経緯だったのですか?
A: 先程述べたとおり、私は法学部に入ったときに弁護士を目指すことは決めていましたが、大学1年生の間は障害者の仕事のお手伝いなどのボランティア活動をしつつ様々な社会問題を勉強するサークルなどを熱心にやっていました。最初の夏休みには京都からヒッチハイクで熊本の水俣市まで行き、水俣病の患者の方々からお話を聞き公害被害の実態を勉強しに行きました。2年生から本格的に勉強をはじめ、運良く4年生の時に司法試験に合格することができました。

司法研修所に進み、裁判官・検察官への誘いもあったので考えましたが、やはり元々目指した弁護士になろうと決めました。世の中のことも全く知らない若干24歳が人を裁く裁判官になるということに対して根本的な違和感があったことも事実です。

Q:弁護士になる際にどういう観点で勤める事務所を選ばれたのかを教えてください。
A: 弁護士といっても様々な仕事をしている方がいて、法律事務所の大きさや組織としてのカルチャーも千差万別ですが、若いうちはなるべく多くの経験豊富な先輩弁護士と仕事ができて、仕事の内容的にも幅広い経験をできる事務所で、かつアメリカへの留学のチャンスも与えてくれるところに行きたい、というかなり欲張りな基準で、沢山の法律事務所を訪ねて回りました。最後に選んだのは、規模としても最大級でかつ国内と国際的な案件を両方扱っている東京の法律事務所でした。

弁護士を目指すために好きだった物理等を諦めざるを得なかったことにずっと心残りがあったので、弁護士としてもできるだけサイエンスの分野に触れる仕事がしたいと思い、特許や著作権などの知的財産権を一つの専門にしたいと希望しました。

また、事務所に入るときに、国内部門と国際部門のどちらに入るかという選択肢がありましたが、私は迷わず国内部門を選びました。英語を扱う仕事はアメリカへの留学を機会に始めればよい、それまでは日本国内の裁判などもしっかり経験しておきたい、と考えたためです。実は、事務所からは留学する気なら国際部門に直接入るべきだと強く言われましたが、自分の考えは曲げませんでした。最終的に裁判で裁判官が契約をどう解釈するのかを知らずに契約交渉をするのでは弁護士の能力として完全でない気もしていました。

Q: アメリカへの留学はいつ頃から考えられていたのですか。また、留学をされてからのお話を聞かせてください。
A: いつからかは覚えていませんが随分昔から何故かアメリカという国には憧れがありました。何となく自分の性格に合っている土地なのではないかという漠然とした期待感があり、是非住んでみたいと思っていました。弁護士になった時に4、5年後には留学しようと決めました。

日本にいる間は、英語を使う仕事をほとんどしていなかったので、TOEFLのテストも随分苦労しましたし、実際に1996年の夏にアメリカに来てからも毎日が苦労の連続でした。でも自分で望んで来た憧れの国だし、日本では全く触れることがなかった発想や知識を吸収できる喜びの方がずっと大きかったことは確かです。留学一年目のロースクールは本当に辛かったですが、「やっぱり日本がいいや。はやく帰りたい。」とは全然思いませんでした。

留学する際の一つの目標が、日本に戻った時に知的財産関係で海外の弁護士相手に国際的な仕事のできる弁護士になることでした。これが極めて高いハードルなことは良く分かっていたので、できる限り多くの知識を吸収するため、アメリカ人も含めて誰よりも多く授業を取り、寝る間を惜しんで勉強しました。学校側からは、英語もろくにできないのにそんなに沢山授業を取って自殺行為だ(suicidal)だとまで言われましたが、何とか(それこそ「死にそう」になりながら)乗り切って卒業しました。

卒業後2ヵ月後にニューヨーク州の司法試験(Bar Exam)を受けました。他の人はこの試験のための勉強が大変だ、と言っていましたが(確かに大変なことは事実なのですが)、私の場合は大学を卒業するまでの方がもっと大変だったので、最初の1年間のうちでBar Examの勉強をしている時が実際のところ一番楽でした。

その後、サンフランシスコの法律事務所で10ヶ月、ワシントンDCの法律事所で2ヶ月、シカゴの法律事務所で11ヶ月、客員弁護士というポジションで研修をしました。当初の予定では、この後、元所属していた東京の法律事務所に戻ることになっていましたが、途中で考えが変わり、東京の法律事務所を辞めてシリコンバレーのローファームでアメリカ人と同じロングタームのポジションで仕事をしてみたいと強く思うようになりました。

Q: 日本に帰らずにアメリカに残られたのはなぜですか?
A: アメリカに来て2年ほど経った頃、当初の目的であった「3年の留学を終えて日本に戻ったら、知的財産権に関係した複雑な契約について外国人弁護士と英語で対等に交渉してクライアントの利益を守れる弁護士になる」ということがおよそ達成不可能だということがはっきりしてきました。元々ハードルが3年で到達するには高すぎたこともありましたが、それに加えて、1年限りの研修目的のポジションでは、受け入れるアメリカの事務所の側から見れば完全な「お客さん」であって、他のアメリカ人の若い弁護士が経験するような密度の濃い経験は受けられないことが明らかでした。そこで、当初の目的の達成は諦めて日本に戻るのか、それともアメリカに残ってあくまで当初の目的の達成を目指すのか、の選択に迫られました。

日本に戻った場合でも、日本の枠ではその分野で有数の専門家になるチャンスは大いにあると思いましたが、それは日本の枠を取り払った世界の土俵で見ればどれだけ価値のあるものか大いに疑問でした。また、私がアメリカにいる間にも日本経済は沈下の一途を辿っており、日本は何かを本質的に変えなければならない、という切迫感も大いにありました。しかし何かを変えるには政府や会社に頼ってもだめで、本当の変化は個人個人のレベルからしか始まらない、皆が他人が何かを変えてくれるのを待っているのでは変化はいつまでたっても始まらない、だったらまずは自分自身で小さくても変化を起すことを考えなければならない、ならば自分は一体何を変えられるのだろうか、というロジックで自分自身に対して半年間ほど厳しく問い続けました。

資源のない日本が21世紀もそれなりの経済水準を保っていくには他国との競争に勝ってより質の高い技術と製品・サービスを世界に生み出し続ける以外にないわけですが、その意味での国際競争力が急速に落ちていると感じました。色々な処方箋が考えられましたが、日本の国際競争力を回復させる一つのキーはシリコンバレーにあるに違いないと思いました。変化への対応の遅い大企業中心の文化ではこれから益々変化と競争が厳しくなる世界経済の中では日本は取り残される一方だろう、質の高いベンチャー企業を間断なく無数に生み出しつづけるシリコンバレーから日本が学べることが山ほどあるに違いないと思いました。優秀な技術と人材をもっといいタイミングで日本からシリコンバレーに送り込み、こちらの環境とルールに則って競争させることをもっともっと当たり前のこととして行う必要があるだろう、そういう中で個々の日本人を国際的な環境で鍛えることで日本の国際的競争力を個人レベルで底上げすることにもつながるに違いない、などと考えました。

アメリカに来て以来、組織・会社・国などという社会的な構成単位も、結局のところ個人個人の集積であり、自立した個人を生み出してその個人の持つユニークな潜在能力を引き出すことのできない組織・会社・国などはいずれも遅かれ早かれ滅びるものだという感を一層強く持つようになりました。日本国内での改革の努力は怠ってはいけませんが、バブル崩壊後の経緯を見ても、それだけでは変化のスピードの面でも質の面でも到底不十分であることが明らかであると思われました。

日本で生まれた技術や人材がシリコンバレーのオープンな競争環境で鍛えられ大きく育ち、その一部は日本に戻る(日本に戻ることはいつでもできるわけですから)、というような技術と人材の循環(circulation)を日本とシリコンバレーの間にできる限り早く作り出す必要があると考え、それを実現するための必要条件の一つとして、日本とアメリカ双方の法律を熟知した弁護士もシリコンバレーに何人かは必要となるだろうと予想しました。というのも、シリコンバレーではベンチャー企業を立ち上げる初期の段階から弁護士が極めて重要な役割を果たすということを知っていたからです。

ところが、これまで短期の研修を除き、日本の弁護士がシリコンバレーのローファームで長期間勤務した例はまだないと聞いていました。それならば、自分が成功できるかどうかは全く自信が持てないものの、もしロングタームのポジションで仕事がシリコンバレーで見つかるならトライしてみる価値があるに違いない、と心を決めました。

シリコンバレーのメジャーなローファームにレジュメを送ったところ、幸運にもシリコンバレーで最大のローファームであるウィルソン・ソンシーニ・グッドリッチ&ロザーティで仕事を得ることができたのです。これこそが「自分は何を変えられるか?自分にしか生み出せないユニークな価値は何か?」と問いつづけた結果得た、その時点での一つの結論でした。日本では弁護士を起業家の枠に含めることはまず少ないでしょうが、「他人のやっていないユニークなことに挑戦する」という意味で、私としては自分も一種の起業家のつもりでシリコンバレーにやってきたわけです。

Q: こちらに来て苦労された点はありますか。弁護士さんはエンジニアと違い、言葉やカルチャーの壁が一層高いハードルのように思えるのですが。
A: それは、本当に苦労しましたし、今でも日々苦労しています。弁護士は恐らく外国人がやろうとする仕事の中で最悪のものの一つでしょう。言葉自体が商売道具ですから。

私は、帰国子女でもありませんし、日本にいる間も英語の仕事をほとんどしていなかったので、ハンディキャップはそれだけ大きかったわけです。

ただ、1996年に初めてアメリカに来た最初から、3年後に日本に戻ることを当然の前提にせず、アメリカに残ろうと思えば残れるレベルの英語を身につけることを目指して、他の日本人よりもヒアリングやしゃべる英語を重視して外国人とも積極的に英語で話をするように心がけました。一日一日の進歩の違いは僅かでも、それが3年経てば大きな違いとなって現れます。そういう3年間こつこつ積み重ねた日々の努力がなければ、今の仕事を手に入れることは到底できなかったでしょう。

とはいえ、多少英語に慣れたとっても、弁護士という仕事は本当に難しいものです。複雑な内容について弁の立つネイティブスピーカーの弁護士と対等に交渉するのは過酷な挑戦ともいえます。また、それは単に語学としての英語だけの問題ではなく、文化的な背景やいわゆるコモンセンスの理解、アメリカでの一般的なビジネスの慣行の理解、個別の業界の慣行の理解、などの背景的知識が伴わないと知的で説得的な議論は展開できないのです。そういう知識を補うため、様々な新聞・雑誌などを読んでいますが、時々途方に暮れる気がすることも正直あることは事実です。

しかし、今の自分の苦労を考えると、戦後の日本人は本当に凄いと思ってしまいますね。情報もなく、基本的な英語の教育もなく、日本のいう国や各企業に何のブランド価値もない状況から、とにかくよい製品を作って自ら靴底を減らして駆けずり回って売って回ったわけですから。

それに比べて今の日本の何と情けないことか。自分に痛みの伴う変革を拒んで、昔の成功の利息とそれで足りない分は国債や年金などで将来の世代から借り入れて何とかやりくりしているというのが実体でしょう。先送りすれば問題がもっと大きくなって、場合によっては手をつけられなくなることが分かっているのに、思い切った決断が全くできない。カルロス・ゴーンさんのようなリーダーが政治や経済の世界で日本人から生まれないのは本当に残念だと思います。日本の政治や各大企業がひたすら改革を先送りしている間は、私は自分の子供を日本に戻したくはありません。自分達の責任が一切ない親やその上の世代が積み上げた膨大な負債を肩代わりさせられる次の世代は本当に哀れだと思います。親としては自分の子を無責任極まりない世代の犠牲者にはしたくはない、というのがごく自然な感情です。

Q: 中町さんはコミュニティー作りにも大変熱心に活動なさっていらっしゃいますが、コミュニティーはやはり大切なのでしょうか?
A: インド人や中国人の間には非常に強いコミュニティーがあるのに、日本人の間にはありません。これは、ここにいる大部分の日本人が日本の会社からの短期派遣社員であったということも大きな理由です。しかし、個々の日本人の成功のためにも、また日本がシリコンバレーの更なる発展に貢献できるためにも、日本人プロフェッショナルの組織化は必要だろうと3年前にシリコンバレーにに来たときから考えており、どういう形の組織が望ましいか、色々な人と議論してきました。

単に弱い日本人同士が傷を舐めあったりもたれ合ったりする馴れ合い組織では意味がない(というかむしろ有害である)のですが、自立した個人が必要な情報を交換しビジネスにつなげたりビジネス上のリスクを減らすことができる組織、またより経験豊富な起業家やビジネスマンがメンターとしてこちらに来て間もない方をリードしてあげられるような組織であれば意味があるだろうと思ってきました。

JTPAはそういう組織の一つで、その他にシリコンバレーにいる起業家をターゲットにしたSVJEN(Silicon Valley Japanese Entrepreneur Network)という組織にも関わっています。また、学生も含めたより若い人の交流の場として、2-3ヶ月に1回、100人規模のパーティーも主催しています。

Q: 最後に日本の学生に一言お願いできますか?
A: 私は昔から、自分の将来は自分自身で決める、そして自分の人生に対してその時々で可能な限りコントロールを維持する、ということが極めて重要だと思ってきましたし、その思いは今でも変りません。自分の人生に対して最終的な責任を負えるのは結局のところ自分しかいません。あの時、あの人の言うことに従ったためにこんなことになってしまった、などと後悔するのは御免でした。

経験のある人の意見に耳を傾けることは勿論重要です。私も、日本での保証された地位を捨ててこちらに来ることを決める前は、元の勤め先の上司も含めて沢山の方に相談しました。しかし、最終的な決断は本当の意味で自分自身のものでなければならないし、そうでなければその後の苦しい場面を乗り切っていくことはできないと思います。

私の場合、日本で相談した人のほとんどは、自分の両親を含めて、アメリカに残ることに強く反対しました。「ばかなことはするんじゃない、そんなに簡単に世の中変るもんじゃない」と言われました。そういう意見も考慮に含めながら、自分の頭でよく考え抜いて、やはりシリコンバレーに残るべきだと決断したのです。今振り返ってみても、我ながらあの時よくそんな決断ができたものだな、とも思います。今のような経済環境ではそうは行かなかった可能性も高いと思います。そういう意味では人生はタイミングでもあり、チャンスが訪れたときにそれを掴めるかどうかで大きく人生が変っていくことは間違いがありません。

まだアメリカに残るかどうか悩んでいた時、「まずとりあえず日本に戻って東京の事務所でパートナーになってから、アメリカに戻ることを考えても遅くないのではないか」というアドバイスをくれた方もいました。一理あるとも思いましたが、直感的に一旦日本に戻ったら二度とこちらには戻れないだろうと思い直しました。あの時、そのアドバイスを受け入れていたら、間違いなく今でも東京にいたでしょう。ほんの少しのところで人生は大きく分かれるものだな、と思ってしまいます。

私にとって過去10年間は、様々な意味で本当に変化の多い期間でした。その間、色々な土地で数え切れないだけの人に会い、色々なことを考えされられてきましたが、その結果、自分の人生は、自分がこの世に生まれてきた理由や意味を問いつづける「自分探しの旅」(self-searching journey)だということがよく分かってきました。今でも「自分が本当に何をしたいのか」「自分は本当は何者なのか」を日々自分に問いかけながら一歩一歩前に進んでいるというのが実際です。

自分はもう34歳ですが、自分にはまだまだ自分の知らない可能性が秘められているに違いないと信じています。それを信じている限り、もっともっと自分は変っていけるはずだと思っています。

ただ、それは自分だけの世界に閉じこもっては実現できません。私も仕事が忙しい時でも機会があればできる限り多くの人と会って意見交換をさせてもらうよう努めています。相手の肩書きやバックグラウンドに捕われず、その人の言っていることによく耳を傾けることが大切です。

日本の若い方にも、日本という極東の島国に偶然生まれたことで人生の半分以上は決まった、などとは思わずに、自分の意思次第で今後自分はどのようにも変っていけることを忘れないで欲しい、そして自分の興味(curiosity)に従ってオープンな心で色々なことにチャレンジして欲しいと思います。

他人が抱いている先入観や勝手に思い込んで作ってしまった自分自身の「殻」や「枠」から勇気をもって飛び出せるかどうかが大きな人生の分かれ目になるはずです。アメリカという国は、情熱(passion)とビジョン(vision)を持って真剣に努力を続ければ、不思議とチャンスが巡ってくるところだと思っています。情熱とビジョンのある方には是非一度来てみることをお勧めします。

インタビュアー感想 :石川智子

ご本人の並々ならぬ努力の結果、言葉とカルチャーの壁を乗り越えて弁護士として活躍されているという印象を受けました。企業の華やかな活動の影で、縁の下の力持ちとして、多くの日本人の支えとなるという使命を背負い、今日もシリコンバレーでご活躍なさっている中町さんに助けていただいて起業した方たちの会社が、日本の経済にプラスの効果をもたらしてくれる時がそう遠くない日のような気すらしてきます。