バイオの本場を求め、アメリカに渡り、バイオベンチャーからスタートして自分の会社を立ち上げるまでの橋本さんのサクセスストーリーを聞かせていただきました。橋本さんは運があった、とおっしゃっていましたが、運だけではない何かを感じさせられました。(インタビュー日:2002年6月18日)

プロファイル

中央大学理工学部卒業。雪印生物科学研究所勤務後、渡米。カリフォルニア大学デービス校にてリサーチアシスタント、ティーチングアシスタントを経験。1990年Neurex Corporation(現Elan Pharmaceuticals社)に入社しStanford大学、Warner-Lambert社(現Pfizer社)との共同研究開発研究担当。1995年Lynx Therapeutics社入社。 Johns Hopkins大学、PE-ABI社(現Celera社)等との共同研究担当。1998年、故Robert Swanson氏(Genentech創立者)Acting CEOのもとに、AGY Therapeutics社設立とともに参加。事業開発ディレクターとしてベンチャー会社育成に携わり、2001年よりGallasus, Inc.社として独立。USライフサイエンス、バイオテクノロジー、ベンチャー投資、ベンチャー経営等のコンサルティングを展開

インタビュー

Q: 簡単な経歴からお話ください。
A: 私は日本では普通に中央大学の理工学部を卒業しました。そのころはちょうどバイオの波が来たときで、ちょうど遺伝子組み替えの頃です。学部1、2年の頃はなにもやりたいことがなくdisappointedという状態でした。

細胞生物学という新しいテクノロジーを大学4年のとき学び、生命の謎ということに非常に興味をもち、それが今に至るのです。その当時新しい、興味のある研究室に入りまして、ノーベル賞クラスの研究者と一緒に研究をなさっているような自治医科大学の先生と共同研究をしたりして、これは面白いと思いました。でも私は工業化学だったので、女性は少人数。だから大学院に行くなんて恐れ多くて、それよりも給料をもらって研究したい、と思うようになりました。あの当時募集条項には”男”何人という頃でしたから女性の技術者はおまけのような存在でした。女性は別に採用面接をするのですが、真剣に技術者として雇ってくれるのは2社ぐらいだったのですね。それで、雪印乳業の生物科学研究所に入りました。エリスロポリチンの研究をするグループでした。

当時の最先端の研究で、周りにいる人も素晴らしい人たちばかりで。その人たちの強力なサポートがあって、たいした学力もないのに、全部基本から教えてもらいました。その時痛切に感じたのは、素晴らしい研究はほとんどアメリカ発だということです。ちょうどその時、アムジェンという会社が世界に先駆けて我々のテーマであったエリスロポエチンをクローニングしました。やはりアメリカはすごいなぁ、と。やっぱり見てこないと、と思い、本当に軽い気持ちでとりあえず少し行って来ようと思いました。英語もできなかったし、何もあてもなかったのですが、アメリカの大学に聴講生としてアプライしたところ、あなたならドクターコースなのでは?と言われ、応募しました。そしてUCデイビスのドクターコースに入ったのです。

教授のリサーチアシスタントになることで給料が出ました。さらにティーチングアシスタントになると授業料免除とともに給料がもらえました。額としては学生として十分生活費がカバーされるぐらい出ます。それで1年半ほどたった頃、日本企業が開催する日本での就職斡旋セミナーに参加しました。ドクターを取らずに就職を考えたのは、もともとドクターを取るつもりはなかったということもありますし(日本に帰国して高学位なのは良くないと思ったので)、日本にしばらく帰っていなかったのですが、帰国旅費を出してくれたので。教授にはなぜやめるのだ?と、しつこく聞かれました。まったく理解できなかったようです。2企業から真剣にお話しがきたのですが、あまり納得できませんでした。そこで振り返ると日本の大学、日本の企業、アメリカの大学を知ったけれど、アメリカの企業は知らないと思い、それにトライすることにしました。

大学の就職案内にいき、ベイエリア周辺にあるすべてのバイオベンチャーのリストをつくり、全部に手紙を出しました。大手企業はVISAの関係上、外国人を雇わないと聞いていたので、ベンチャー企業しかないと。数社から電話があって、まずある企業からインタビューに来てくれと言われました。ものすごくうまくいって、次のインタビューが設定されました。

実は電話を受ける前に知人とのスキートリップに行っていたのです。そこに来ていたアメリカ人に「何をやっているの?」と聞かれたので「仕事を探しています」と答えたのですね。「分野は?」と聞かれたので「バイオだ」と答えると「レジュメを送ってくれ」といわれ一応送りました。その事は忘れていたのですけど、実はインタビューに呼んでくれてたのはそこの会社だったんです。最後のインタビューで副社長に「ところでどうしてトムと知り合いなのだ?」と聞かれました。その時トムというのが誰だかわからなくて「知らない」と答えたのですが、後で結局分かったのは、スキーに行って話した人の仕事仲間がそのバイオベンチャー設立者のトムだったのです。トムは私がインタビューしたバイオベンチャー設立者のひとりでした。私の知らないところで就職斡旋の話が進んでいたわけです。仕事のオファーが出る頃に、私はどうしても日本とアメリカが橋渡しする仕事がしたかったんですね。だから、ずうずうしくトムに「私はこういうことがしたい」とごねました。その時、彼は「第一ステップとしてバイオベンチャーを見ておくといいのでは」と話したのです。入社第一日目に自分のデスクに案内されしばし机を眺めていると背後から「Chika」と声をかけられました。振り返ると大きなブラックスーツを着たアメリカ人で「僕がトムだ」と微笑んでいたのをよく記憶しています。というのもそれまで電話でのみのコンタクトだったからです。

企業で働いてみると本当によかったという感じで、女性だということも日本人だということもまったく関係ないんです。言ってみればマイノリティーの一人ですよね。それでも、面白いプロジェクトをいただいて、スタンフォード大学との共同研究だったのですが、研究成果が思いのほかうまくいってしまったんです。最初だれも信じてくれなかったのですけど。そんなこともあって、米国大手製薬会社との提携が決まりました。その共同研究担当メンバーになったり、スタンフォード大学との共同研究をしたりを通じて、企業、大学との研究のやり方を経験し、提携というビジネスがどうやって進むか実際に体験することができました。その当時開発していた鎮痛剤が、薬品になって商業化もされました。非常に心打たれたのが、第三臨床試験にはいると、患者さんたちの声が聞こえることです。クウォリティ オブ ライフということを痛切に実感し、バイオビジネスに携わる賜物だと感じました。ビジネスに関しても、会社が上場するところも通りましたし、すべての面を経験しました。

米国企業で働いていると、ヘッドハンターから電話がかかってくるようになります。ボスも何度も変わるのですが、移動のたびに一緒に来ないか、と誘ってくれたり。それで、もうそろそろ会社を移ってもいいかな、と思っているときにアムジェンからヘッドハントされました。あこがれていた会社からヘッドハントされてインタビューし、仕事のオファーをもらって。その時一緒に仕事をするはずだった人はアルツハイマーで後にすばらしい発見をした方でした。ですが、結局オファーもらった後で蹴ってしまいました。「あなたのために何でも用意するし、何でもする」といってもらったのですが、会社の場所がアムジェンしかない所なのです。

私はやはり毎日色々な人と会えるシリコンバレーの環境が気に入っていたので、前のボスが誘ってくれたベンチャーに行きました。その時考えていたのはツールがよくないと、ドラッグディスカバリーもうまくいかないということ。そこでもまた米国大学との共同研究や、後のセレラ・ジェノミックス社、アプライドバイオシステムズとの共同研究の担当になりました。この研究の中から興味深い遺伝子群が見つかり、ドイツのケミカルの会社とジョイントベンチャーを設立することになりました。とにかく運は強いようです。

その後、ボスが会社を作りたいから来ないか、と言ってきました。普通だったらちょっとリスキーと思うのでしょうが、でもやはり行くことにしました。そのボスが、世界で最初のバイオベンチャー、ジェネンティックを創業した故ボブ・スワンソンに投資を依頼したところ、おもしろい、といって社長になってくれました。最初オフィスもない時、自分のオフィスを使ってもいいともオファーされました。「何をやりたいの?」とスワンソン氏に聞かれた時に、「将来は日本と米国とのビジネスに貢献したい」と話しました。彼はオフィスに鎧兜と刀を置いているような人でしたが「そのうちやればいいよ」と言ってくれて。その刀は特別注文したものだということです。その会社ではビジネスディベロップメントのディレクターになり、ベンチャービジネスを実体験でき、スワンソン氏じきじきの教訓も習うことができました。

ところが残念なことにスワンソン氏が脳腫瘍になり、あと9ヶ月の命だと言われてしまったんです。CEOが死の宣告をされてしまった。でもそれまでの間、会社というのはどうやって作ってどうやって進んでいくのかを見せてもらいました。その時、いつか自分なりのことがやりたいと思うようになり、現在に至ります。今は米国企業、ベンチャー企業への日本マーケット、投資、共同開発斡旋、日本企業に対する米国バイオ・ヘルスケア業界のコンサルティング、提携、投資斡旋、技術トランスファーなどを行っています。

すべて運でここまで来ました。そして米国の人々にいつも手を差し伸べられて、サポートされてなんとかきています。大きな国だと思いませんか。まったく見ず知らずの外人にチャンスを与えてくれるのですから。スワンソン氏に「ビジネスベンチャーに必要だと思うものを3つ言ってごらん」と聞かれたことがあります。「お金も必要だし、テクノロジーも必要だし、人も必要」と答えると、彼は「違う。第一、人、第二、人、第三、人」だというのです。「人がテクノロジーを生んで、そのテクノロジーがうまくいったうまくいかないは人が決めるのだ。だから人なのだ」というんですね。そのことは次のことにもつながります。世の中って広いけれど一生で会う人は意外に少ないのです。だからいくら意見が違っても否定してしまうのでなく、その人を大切にして欲しい。つまらないことでケンカするのでなくて仲良くすることが自分にとって良いことだと思うのです。というのも私は外国でこちらの人には今迄までずっとお世話になって生きてきているわけですから。

Q: 上司の方などに言われた橋本さんのいい所、というのはどういうところにありましたか?
A: いい点・・・。アプローチしやすい、話しやすい、打ち解けやすい、とは言われましたね。こっちにくると感じるのはいくら肩肘を張って生きてもただ一人の人間だ、ということです。あるインタビューで「あなたにとって一番のアチーブメントは何か?」と聞かれたことがありあました。私はその時「ここに来たことだ」と答えたら、「それがどうしたの?」と言われてしまいました。彼が言ったのは「確かにそれは素晴らしいけれど、僕もそうだし、僕の友達もそうだよ」というのです。アメリカは移民の国ですから、それは皆が経験していることなのですね。その時にそんなもんなのだな、と思いました。バイオベンチャーはIT系のハイテクとは少し違います。でもバイオサイエンスの世界は90%正しいと思っていたことが、往々に間違えだったりするのです。そうするとネガティブの実験結果は日常茶飯事です。そういうときにどういうプレゼンテーションをして結論を伝えるか、そこから何の仮説、発展などが考えられるかというプレンゼンテーションスキル、コミュニケーションスキルが必要です。どういうふうにconvincing storyを伝えるかが大切です。それが米国企業ではトレーニングされるのです。「こういう結果がでたけれど、自分はこういうことをしてこういう結果がでたから次はこうするとこういう結果がでる」とか。そうでないと誰も認めてくれないですしね。できるだけ相手に分かりやすいようにすることが必要ですね。
Q: こちらに来てまわりとの比較で劣等感などを感じたことはありますか?
A: いつもでした。パーティーとかに行っても人の言っていることがわからなかったし。ごみやさんともコミュニケーションとれないし。自分はばかでないか、と思ってしまったり。日本だったら自信があった部分が、米国に来るとそれがすべて壊されて打ちのめされますね。
Q: それに対してどのような努力をなさいましたか?
A: 自然に慣れました。仕事をしていたことが良かったのかもしれないです。自分はこれだ、と見せるものがあったし。大学だけではわからないアメリカ社会を学んだと言えるでしょう。実際に現地のヒトと現地企業で働いて初めてアメリカという国が理解できました。現地のヒトと浮き沈み、悩み、喜びをともに体験することにより、同士の絆が生まれてくるものではないでしょうか。 
Q: 先ほど自分にとってアチーブメントは何か?と聞かれたとおっしゃっていましたが、今そう聞かれたらどうお答えになりますか?
A: 今だったら、結果ももちろん大切だけれど、過程を楽しむことに気がついたことがアチーブメントだと思っています。試行錯誤してやってきた過程自体がやってよかった点です。だから今も何かをつくることに興味があります。スタートアップはその点で面白いですね。
Q: 日本にいるときもやはりそういうことは好きだったのですか?
A: たぶん好きだったと思います。なんでもいいのですが、人に言われるよりも自分でやるほうが好きですね。だからアメリカがあっていると思うのですが。こちらでは皆それぞれ好き勝手で、自分のペースが認められます。
Q: シリコンバレーで他に自分にあっていた、という点などはありましたか?
A: コミュニケーションに関してはあっていたというよりは努力して気をつけています。こちらでは悪いことを相手にしてしまったら、すぐに直さないといけないですし。そういうのは常に気をつけています。
Q: いきなりアメリカに行こうと思って行けた、というのはやはりすごいと思うのですが不安などはなかったのですか。
A:今だったらそんなこと絶対しないですけど、かえって情報があふれていなかったのが良かったのだと思います。安易な気持ちだったのが逆に良かったと。重要な立場だったわけでもないですし。目の前にいい話がおりてきて、それにぽっとのる感じですね。
Q: 探すというよりも来るのですか?
A: 探しているときにはないもので、自然体でいるとき気がつきます。
Q: 技術を持っていたことが強かったと思いますか?
A: 技術を持っていたといってもドクターを持っていたわけでもなく、私くらいできる人はたくさんいます。テクノロジーはある程度は必要ですが、どういうプロジェクトを与えられるか、どういうボスにつくかがそれ以上に大切なことですね。ボスに反抗することはアメリカでは首につながりますし。
Q: アメリカはフラットで上下関係がないイメージがありましたが。
A: アメリカは完璧な上下関係です。だからこそ決定が早いのです。日本はだれもが決定権を持っていないから進むのが遅い。でもこちらでは各々担当と義務、権利が決まっているのです。
Q: やめさせられる場合も十分にあるのですね?
A: しょっちゅう首がとんでいましたね。グループで10人いて、残るのは2人という環境も経験しました。
Q: 不安はなかったのですか?
A: 不安でしたよ。ある日突然ミーティングによばれると、○○さんが首だ、と告げられたり。
Q: それに対してなにか対策はとっていたのですか?
A: 取れるようで取れないのですね。でもほとんどのアメリカ人は危なく感じた時点で、もう次を探しています。だから米国人は100%仕事に専念するよりはある程度の時間を外の世界と連絡をつないでいざというときに備えています。
Q: 橋本さんもそうでしたか?
A: そうでもなかったですね。
Q: 首をきられる原因はボスとの意見の食い違いですか?
A: そうですね。人間関係が非常に重要ですから。米国広いですから同じ能力を保持する人材はたくさんいます。一緒に働く人はやはり気が合うのが非常に強い条件の一つです。CEOのポジションも同じですね。
Q: 会社を作ったときの経験に関してお話いただけますか?
A: やりたいことを形にしただけです。

シリコンバレーでは分業がはっきりと出来ていて、プロフェッショナル化が進んでいるので、仕事がしやすいですね。それぞれの分野でのプロフェッショナルが時間労働で雇える環境にあります。たとえばバイオのマーケティングは誰にやってもらって・・・と。日本はあまりスペシャリスト化が進んでいないですよね。そこがもう少しうまく進んだらスタートアップもおこりやすい環境になるのではないでしょうか?
こちらでとりあえず企業に入ってみたのはすごくよかったと思います。というのは良い人とそこで知り合えたからです。ネットワークというのはお金にはかえられないですね。

Q: スタートアップをする際のコツみたいなものはどのように考えますか?
A: 一番大切なのは失敗を怖れずにやってみることだと思います。何が起こるかわからないですから。その時に大切なのは人だと思います。というのはビジネスの成功もためもあるのですけど、この人とやろうと思った時、その人とは昼も夜も一緒にいることになります。それは人生にとって大切な部分の、何かをクリエーションしていくとか、自分が一番信じている部分をシェアしていくことになるわけで。非常に重要に思えないといけないし、そういう人が見つからないなら無理はしないほうがいい。しばらくしてけんか別れすることも多い。その時の問題解決にかかる時間も労力も費用もエモーショナルな面もつらいですよね。いい知人とはじめると作る過程も一層おもしろいし、シェアするのも楽しい。それを推薦しますね。今でも仕事をやっていて必要な時は友達に聞きます。または友達を雇ったりする場合があります。彼らは業界のクリエーターですから。知った仲だからやりやすい。また人によっては友達なのだからお金のことは言って欲しくない、という人もいます。困ったときは頼むことがあるだろうから、と。
Q: そういう関係が日本よりもここでは成り立ちやすいのですか?
A: 日本でもあるかもしれないのですけど、ひとつ違うのは、ここは環境が変わりやすいでしょ?だからそういうところを一緒にくぐってきた同士のような感覚があるのです。
Q: 日本にいたらスタートアップしなかったと思いますか?
A: 絶対になかったと思います。そういう環境だし。
Q: バイオの分野でこちらで技術者としてやっていくにはPh.D.は必要だと思いますか?
A: 絶対に必要です。私はたまたま運がよかっただけです。テクニシャンとしてならできるけれど、それだとちょっとつまらないですけどね。
Q: それは分野を問わず、ですか?
A: エンジニアだったらマスターでもいいと思いますね。On the job trainingで技術が伸びますしね。
Q: バイオベンチャーは半分以上はシリコンバレーと聞いたのですが。
A: もうすこし少ないですね。シリコンバレーとボストンが同じくらい。ボストンの方が少し多いかな。その次がサンディエゴで次がシアトルで・・・。でもこちらは確かに多いですね。
Q: 研究をもう一度したい、という気持ちはありますか?
A: ないですね。自分よりも優秀な人がたくさんいるのにどうして自分がやらないといけないんだ、という感じです。大学の先生が言っていたのですが「世の中はみんな研究する必要がないんだよ、中にはハンバーガーを焼いている人もいないといけないからね」と。それにはアグリーですね。
でもなんでこんなにうまくいいプロジェクトを次から次に与えてくれたのが不思議ですけど、それがアメリカの懐の深さですね。
Q: それはアメリカではよく起こることだったのですか?
A: やはりレアだと思いますね。人も少なかったということもあってのではないでしょうか。
Q: 初めからこのような仕事をしたいという気持ちはやはりあったのですか?
A: あったのだと思いますね。初めの仕事の時やりたいことを言ってごねたぐらいですから。だから、ことあるごとに聞いて回ったり。
Q: シリコンバレー以外で、ということは考えていますか?
A: ヨーロッパに住みたいのですけど、リアリスティックでないですよね。シリコンバレーは人種のるつぼなのでアクセッサブルですしね。今思うのは、若いうちから20年後なにをやりたいかを考える教育を日本はするべきですね。
Q: どうして大学の時理工を選んだのですか?
A: 数学が好きだったから。とくに具体的なイメージは何もなかったですね
Q: こちらの人はキャリアデザインをしっかりしている、と聞くのですがやはり皆さんそうしていらっしゃるのですか?
A: 結果から言ってしまうと、見かけはそういう風にいくといい、というのはあるかもしれないですけど、あくまで結果ですよね。
時代、産業、経済状況で着々とキャリア路線は見直されていくため、追いつかないのが現状です。いい例は5-6年前はITがブームで現在はバイオ。それぞれの産業内でのRequirementも変化しています。ベンチャーが出てきたの自体が最近ですしね。
Q: 特に考えているわけではなくその時にやりたい方向に進んでいる、ということですか?
A: ビジネスの人だとお金で流れる人もいますけどね。でもそれが幸せかはわからなくて。弁護士は給料は高いですけど、その仕事に満足している人の割合は少ないんです。一番大切なのは自分が何をやりたいか、なのではないでしょうか?私も好きなほうにコロコロ転がるタイプですね。転がるように道は作らないといけないんですけれど。
Q: 運が良かったとおっしゃっていましたが、luckをluckと感じられない人もいると思うのですが?
A: その時点ではチャンスと思っていないんですね。後になってから分かるんですけれど。意図的に考えた時はだめです。ふらふらと行ったときの方が後でうまくいったと思うんですね。意識するとない、というか。なんとも言えないですね、こればかりは。もう一つは、運が良かったと後で思うこともその時はすごく泥にまみれていてぜんぜん良くないんですよ。

みんながいいな、と思っているピカピカのものは、もうそれだけなんです。もっとファンダメンタルに自分にとって役に立つものが重要なのではないでしょうか?それはものでなかったりとかして、情報だったりします。何か情報が入ってきて、その時自分がそれを考えるタイミングだった、というときもありますし。

Q: よくメンターといいますがそういう存在の方はいらっしゃいますか?
A: 私は今それが非常に欲しいですね。自分をかなりしっかりと持っていないと分からなくなってしまう世界なんです、シリコンバレーは。何人かいいことを言ってくれる人はいます。言われたときは腹がたったりすることもあるのですけど。そういう人を何人かもっていると自分を戻してくれます。それは年下でもいいと思います。なにかハッとすること言ってくれる人。

むかし高校生の男の子をインターンにつけたことがありました。私は彼から学ぶことが多かったですね。その時彼は新聞部の編集長、生徒会長、武道の倶楽部に所属、バイオリニストで、夏にインターンでベンチャーに来ていて・・・。色々と教えていくうちに、彼の世界を見せてくれました。彼は前の年まではジャーナリストになりたくてそのインターンもしたらしんです。そこでジャーナリストに幻滅するところがあって、次にやりたいことが研究だったらしいのです。彼の父親は東ヨーロッパ出身で苦労してお金のない中、彼を育ててくれたらしいのですね。彼は、はじめは音楽学校に在学したのですが、それではお金持ちにならないと感じてプライベートスクールに入りなおしたらしいんです。でもそこにはお金持ち出身の子ばかりいて、いつもお金がないということがハンディキャップになっていたと。彼の夢はスタンフォードに行くことでした。結局彼はそこには入れなかったのですが、高校生なのにここまでキャリアトラックを考えていることに大変刺激をうけました。脳神経関係の仕事をしたいというのでMDとPh.D.を両方とれるコースを勧めたところ、今がんばっています。彼なんかは学ぶことの多かった人ですね。

Q: アメリカにはそのように意識レベルの高い人が多いのですか?
A: アメリカはピラミッドなんですね。すごく意識の高い人もだからいます。話をしていて年の差を感じない。対等になって話すことができます。

インタビュアー感想 :石戸 奈々子

あくまでも自然体でお話する橋本さんは、とても不思議な魅力にあふれていました。橋本さんは運が良かったとおっしゃっていましたが、運だけでなくその橋本さんの性格、考え方、生き方すべてが、チャンスを生み出しているのだと思います。人間としての深い魅力が周りにすばらしい人を集め、すばらしい経験をよんでいるのだと感じました。キャリアとしてのロールモデルにとどまらず、人生そのもののロールモデルになっていただきたい、そう思わずにはいられない存在の方でした。