MAZDAが世界に誇るオープン・スポーツ『Miata』(日本名『ユーノス・ロードスター』)のデザイナーで、現在サンフランシスコ「Academy of Art College」のIndustrial Design Departmentのトップとして、後進のインダストリアル・デザイナの育成にあたっておられる俣野氏を招いて、ネットワーキング・セミナーを開催しました。
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当日アンケート集計結果
俣野氏は、成蹊大学を中退後、ロサンゼルスの「Art Center College of Design」で学位を修得され、その後GMそしてBMWでデザインのプロとして経験を積まれた後、米国MAZDAに招かれたというグローバルに活躍するプロフェッショナル・デザイナー。
今回の企画は、自分の仕事の内容とは異なる分野であるもの生来の車好きから非常に楽しみにしていた企画。『Miata』の設計にまつわる話を聞けただけでなく、質疑応答の時間が十分用意されざっくばらんな議論を楽しむことができた。セミナー後にも個人的に話を伺いに行くことができる等、俣野氏の飾らない人柄は非常に魅力的だった。
■ 1.俣野氏プレゼン内容
俣野氏の略歴
- もともとは成蹊大学の経営工学部に在籍していたが、その後一時建築工学を目指すものの、デザインへの興味が捨てきれず、渡米を果たす。
- LAの「ArtCenterCollegeofDesign」でキャデラック、フォードに興味をもつが、1974年にデトロイトのGM(ジェネラル・モーターズ)に入社。折りしも高まったオイル・ショックの影響で、燃費向上のため車体サイズを次々に小さくするというユニークな局面に接する。
- GM勤務後、オーストラリアに移ったが、ヨーロッパの自動車会社に興味をもつことになる。ポルシェも受かるが(後にビザの関係で頓挫)、BMWとドイツ・フォードにも受かり、最終的にBMWに入社。この頃から業界にて車体設計に空力デザインが必要と騒がれ始める。
→BMWに出した俣野氏の空力を意識した車体デザインは、2000年以降の新しすぎるデザインと評される。。。 - その後、BMWで1年間(現行からすると2代前の)当時最新車種である「3シリーズ」を担当。BMWの車は市場にリリースされてから10年は使用されると言われていたため、中途半端な設計はできないと覚悟する。
- 続いて、カリフォルニアのMAZDAに招かれる。これに併せてR&D社屋のデザインも手がける。カリフォルニアでは、本社では手がけない先進設計を主に担当。初代『Miata』(日本名『ユーノス・ロードスター』)および2代目の他「MX-6」、3代目「RX-7」等も手がける。
『Miata』(日本名『ユーノス・ロードスター』)開発時エピソード
- 俣野氏の基本スタンスとして、「未来を予測する最善の方法は、自分自身でそのデザインすることである。」というもの。社会情勢や経済状況などを考慮してデザインに反映させる。実際の設計段階では、15-20年先にはこうしたトレンドになるのではないか?といったデザインを、より現実的な形で次期モデルへ落とし込む手法をとっている。
- 『Miata』(日本名『ユーノス・ロードスター』)を設計する際に最初に集まったモック・アップ・デザインは日米チームで全く異なっていた。『Miata』は当初より米国で主に売ることを考えた車であった。(俣野氏は勿論米国チーム所属)
日本チーム案:FF(Front engine Front drive)、Midship(前後輪間の重量中心にエンジンを設置)
米国チーム案:FR(Front engine Rear drive) - 日本チームは、当時の日本での市場動向からFFを押すものの、車を最も自然に近い形とするとFR(FrontengineReardrive)になる、という観点から、最終的には米国案のFRに落ち着く。
- 『Miata』設計時は、当初から20年後にコレクターズ・ガイドができることを想定して拡販資料等含めて戦略を立てた。
- 初代『Miata』はごく普通の運動靴的な気軽なキャラクタ付けを行ったのに対し、2代目はより運動性能の高いNikeのシューズをデザインするかのようなスタンスで対峙した。
- 自動車のデザインをする際には、その国の文化を反映して様々な違いが発生する。例えば、ドイツでは実車の原寸をもって紙面デザインするのに対し、日本のMAZDAでは最高でも1/2サイズの紙面をもってしかデザインしない。後に、日本のMAZDAに行って分かったのは、その実車1/2サイズの机までしか持ち合わせていなかったこと。日本の土地の狭さが無意識に反映されている。一方、米国と日本では道路の幅も車線数も圧倒的に異なる。『Miata』は当初より、米国市場を主なターゲットにしようと考えられていたため、米国の街並みに合うよう、また米国の生活体感にフィットするよう米国のスケールを再現したスタジオ内でデザインされた。
- 例えば、日本では駐車はバックから入れることが多い(狭い空間ではバックから駐車する方がきれいに入る)が、米国は駐車スペースが広いため、状況は全くの逆で頭から入れる。したがって、駐車中の車を見る歩行者から注目されるのは車のリア・フェイスとなる。街の運転においても後続の運転者から見えるのは、対向車線のフロント・フェイスよりも通常前走のリア・フェイスであるため、『Miata』では魅力的なリア・フェイス造りにこだわった。一方、フロント・フェイスは誰からも嫌がられることのないシンプルなデザインを心がけた。丸い目(ライト)があって丸い口(ダクト)があるような優しいデザインで、誰からも嫌がられることがないという点では『ローバー・ミニ』や『VWビートル』等と共に『Miata』は今でも健在と考えている。
- 日米の生活習慣の違いや食べ物の違いも結局のところはデザインに影響すると考えている。車の色目の基本色であるベージュを例にとっても、そこから米国チームがイメージする色と、日本チームのイメージする色では既に違っている。(日本の方が黄味の強い色をイメージしている。)こうした習慣や趣向の違いは、一昔前までは各国の車のコンソールにおけるステレオの位置に顕著であった。更に、押しなべて見てみると、ドイツ車は一般にテクノロジーが発達しても自然を超越しない範囲で車を機械的に熟成させようとするのに対し、日本車は、ドイツ車がまだやれていないことを電気制御やコンピュータ制御で実現してしまおう、という傾向があった。(最近まで、ドイツ車は例え日本車がそのようなスタンスに出ても自然を超越しない、という自己規制のスタンスがはっきりしていた。。。)一方の米国車は、生活を便利にするためなら何でもしてしまう傾向があり、却って機能を複雑化させてしまう傾向があった。
■ 2.参加者との質疑応答
何故『Miata』という名前を付けることになったのか?
4つある車名案からカスタマ・リサーチで最終決定した。当初から赤いスポーツカーをイメージさせる音ということで『Miata』(ミアータ)が気に入っていたが、『Miata』には古いドイツ語で「報酬・贈り物」という意味がある。北米地区でのこの名称使用に当たり、何故か日本チームが「ミヤタ自転車」に使用伺いを立てに行くということをしたため、言葉も綴りも違うにも関わらずMAZDAは『Miata』を自動車以外には使用できなくなる、というオチが付いてしまった。
オープンカーを普及させようとしたのは誰?
俣野氏本人及び他3名のチームの案による。チーム全員、LA時代にオープンカーを体験していた。一度乗ると病みつきとなる楽しさを、多くの人に気軽に知ってもらおうと、俣野氏およびアメリカチームから提案した。
最近、日産に中村史郎氏がチーフ・デザイナーとして加わったことで、日産のデザインが大きく向上したが、俣野氏が『Miata』プロジェクトに加わった際もそのような状況だったのか?
古くから芸術が栄えるときは、よいスポンサーがついていたものであり、車のデザインもデザイナーが良いだけでは決して良くならない。斬新な発想やデザインを理解し、支援する会社側の理解がなければ実現はままならない、ということ。『Miata』のデザイン時にはそれを理解してくれる体制がMAZDA内にあった、ということ。
『Miata』(ユーノス・ロードスター)は、当時最も安いモデルは日本価格にして、180万強からスタートしていたが、その外装や内装の質感車自体がもっている雰囲気等からして、とてもそのような価格で売られる車ではないと思えたが、そうした価格にしたのは何故か?【伊東の質問(1)】
そんな価格では売りたくないし、売らずに済むと、当時俣野氏含む米国チームは主張したが、日本チームは未開拓のオープンカー市場に非常に弱気で、ああした値段をつけた。一方、初代での成功に気をよくして、特に好調だった北米市場において2代目の値段を上げすぎた、という失敗もある。
初代から2世代目に移行する際、これまでの日本車にはない程非常に上手くキープコンセプトされていたが、何に最も気をつけたのか?【伊東の質問(2)】
日本チームはもっとドラスティックに印象を変えたいと言っていた。しかし、米国では同じ車種が3代に渡って走っていることがごく一般的。すると、各世代すっかり変えてしまったのでは、新しいモデルを覚えてもらうのに、またゼロから市場に訴えなくてはならない。そこで、100m離れて見れば先代と同じに見え、50mの近くに来た際には何か少し違うと分かり、それでいて誰も嫌味を覚えない車作りを2代目に目指した。そうした条件を満たす車は、現状おそらく「ローバー・ミニ」と「VWビートル」と『Miata』(ユーノス・ロードスター)くらいだと思う。
(俣野氏からの自問・自答)どなたか『Miata』にニックネームや名前をつけて乗っている人がいるのではないか?
初代の『Miata』は女性っぽく、2代目は男性っぽいというのが市場の共通した認識。事実、設計する側もそうした方向を取った。初代に関しては、米国人のオーナがガレージに「お休み!」と言いに行きたくなるような車を作ろうとした。実際には、購入当初車の中で寝た人がかなりいたというので驚く。
日本のインダストリアル・デザインの優秀性も大したものだと思うが、これについて俣野氏はどう思うか?
日本人はアメリカのデザインはダサいとか、趣味が悪い等と言うが米国からすると日本はデザインに対しては比較的敏感だが、色目に関しては鈍感という感覚をもっている。例えば、米国のキッチンペーパーやトイレットペーパーからして既にカラフルであるが、日本の家事関係の用品・用具は色目に乏しい。この辺は感覚の違いによるところが大きいので何とも難しいところ。
日本の『ユーノス・ロードスター』(右ハンドル)の仕様に若干違和感を感じるのは何故か?また、初代でリトラクタブル・ライト(目が開くライトのタイプ)を廃止して、2代目で固定楕円形ライトにした理由は?
前者については、『Miata』が本来左ハンドルを基本コンセプトとしているため。おそらくサイド・ブレーキ位置が日本仕様では少々違和感があると思う。(どこまで全うに右ハンドル化したかの問題)後者については、初代から固定の異型レンズ・ライトにしたかったのが本音。ただ当時は楕円形の異型レンズの中に全照灯もスモール・ライトもウインカーも組み込む安価な加工技術が確立しておらず、全照灯をリトラクタブルにした。しかし、リトラクタブルの採用により、故障の可能性や、モーター込みによるフロント部の重量増大等のディスアドバンテージがあった。また、自分が所有した初代『Miata』のリトラクタブル・ライトが故障して、修理に$160-$180もかかるのを実感してから、これはもう決してリトラクタブルはやってはいけないな、と思った。一方、現在開発推進中の3代目はこうした事情とは関係なく、ヨーロッパの安全基準上、リトラクタブルの通常使用が認められなくなるため、リトラの採用はありえない。
俣野氏がアメリカでやっていけると思った瞬間は?
初めて降り立ったLAのデニーズでぬるいコーヒーを飲んで、猫舌の自分にあうと思った。猫舌があうなら、英語もしゃべれるはず!と確信した。
1974年にデトロイトに移った後も、今にして思えば、いくらかの嫌がらせをさせられていたようだが、訳も分からず一緒になって楽しんでいた。。。例えば、日本では12/8、米国では12/7がパールハーバーの記念日となっているが、その際、仲間からマフラーとヘルメットを渡されてパールハーバーの記念写真を撮られたりしたが、本人はパールハーバーの日を記憶していなかったので、喜んで一緒に騒いでいた。
ドイツではちょっとした徒弟制度があり、デザインのプレゼン当日にプレゼン資料の貼る場所を埋められてしまう意地悪をされたが、次回のプレゼンの際に真っ先に自分のプレゼン資料を貼りまくり加害者を同じ目にあわせたら途端に周囲が親近感をもって仲良くしてくれるようになった。また、初めは英語が話せなかったが、渡米2年後の最終ゴールを自分の作った自前ジョークで人を笑わせることに据えたところ、上達も早まった。要はあまりくよくよ気にせず楽しく捉えるのがよいと思う。
機能と見栄えの両立は難しいように思うが、良い折り合いの付け方は?
決して難しいことではない。シンプルなデザインであることが大切。一方、使っていて使いにくさがあるデザインは長くもたない。例えば、ドイツには元来設計とスタイリストというカテゴリしかなく、純粋なデザインという分野はないにも関わらず、大変に美しい工業製品が出来上がってくる。これはドイツの設計者が非常にそうした感覚を含めて勉強しているため。
日本はデザインの専門家がいるのに、機能と見栄えの両立が下手。俣野氏の場合、自分のデザインの実現の可能性を3、4人のエンジニアに必ず質問をする。例え、反対意見が返ってきても、複数人に対して、できない理由を一通り聞いて回っていると、逆に可能な案が客観性をもって浮き上がってくるもの。
車は世界に受ける1つのデザインで広めるべきなのか、それとも国や地方に応じて仕様や外観を変えて広めるべきなのか?
これはその自動車メーカの規模や体力に依存してしまう。MercedesやBMWは秀逸な単一デザインを世界にばらまけるが、TOYOTAやHONDAのように資産力があれば、現地専用デザインを作ることも可能。一方、規模の小さいMAZDA等は、これらの折衷で行かざるを得ない。
20年先というのはどういう世の中(車)になるのか?
先ほど、15-20年先を睨んでデザインを次期モデルに落とし込むと言っていたが、実際25年先はリタイヤするから自分には責任ないよと言い逃れたいところ(笑)。先行デザインが、現在のデザインの次に落とし込むのは誰かがやってくれることであり、その所要時間はそれを必要とするニーズに依存して決まる。現状鉄はリサイクルに適していて強度も落ちない。一方、アルミはリサイクルで4割程度まで強度が落ちてしまうことからも、20年先もそうそう車の基本構成材料は変わらないのでは?と思う。ハイブリッド(ガソリンと電気による駆動)が現実的な線ではないかと思う。
グローバルに活躍する秘訣は?個人ブランドをもつ戦略とは?
幼稚園、小学校、高校、大学含めて、常に3年くらいの周期で引越しやら、周囲の環境が変わることに慣れてきた。そうした経験が、どこに行っても通用するという下地になっているのではないか。個人ブランドの戦略といったことは特になく、あまり周囲の人のことを気にせずに、自分の好きなことを好きなようにやっていたらそれが確立されてきた、というだけのこと。国や人種といったことを気にせずやるのがよかったのだと思う。
グローバリゼーションによって車の個性がなくなることはないか?
確かに一理あるかもしれない。グローバリゼーションによって、シトロエンは売れなくなり、アルファロメオがアルファらしくなくなるとか。。。例えば、Lexus(TOYOTAの海外向けアッパーブランド名)のセルシオがドアの隙間を2mmにするのは、ドイツ勢にとっては迷惑な過剰仕様だったが、もはや今はそれが高級車のスタンダードとなってしまったように、メーカの違いをなくして行くこともある。
俣野氏がメール等の最後に決まって書く『Always inspired』のフレーズの由来とは?
『Miata』のデザインの際、「ときめきのストーリ」ということを常に念頭に置いており、それを本にする際『Inspires sensation』という訳を当てた。それが、今の『Always inspired』というフレーズに繋がっている。なんとなく、そうしたフレーズを使い始めたら、周囲の皆さんがそのまま馴染んでくれているようなのでこちらもそのまま使い続けているだけ。
■ 3.解散後の伊東との個人的な質疑応答
2代目『Miata』のキープコンセプトは、代替わりすると全く別の車になってしまう日本車市場では貴重だと思った。リトラクタブル・ライトは廃止しながらも、それを固定の異型ライトで先代のイメージを上手く引き継ぎ、洗練されていた。我々の世代では、車種毎の特徴をキープしながらモデルチェンジするとか、(MercedesやBMWまでとはいかないまでも)同一メーカ内のデザインにある程度の統一性を持たせるような、少し大人の感覚をもった取り組みの方が好ましいと思う傾向が最近強くなっていると思う。そうした意識からか、最近MAZDAは全車種に五角形グリルを採用する方向を見せているが、ああした傾向は2代目の『Miata』のキープコンセプトと照らしてどう思うか?
2代目のキープコンセプトはもっと端的に言えばシートカバーをかぶせていても中に入っている車が『Miata』と分かるようなデザインにしたかった、という思いがあった。ただし、個々の運動性能等中身は大幅に良くなっている。一方、キープコンセプトに関して、個人的には今のMAZDAの五角形グリルのような安易な方向は取りたくないと思っている。もっと本質的なキープコンセプトや統一性があるのではないか。
『Miata』は空力特性に優れていると思うが、初代のリトラクタブル・ライトが開いた場合、空力上ディスアドバンテージになるのは時速どの位になってからか?
実用上は殆ど問題ないが、160km/h以上で影響が出始めるという。
■ 報告書著者紹介
伊東 隆介 (いとう りゅうすけ)
スタンフォード大学 Computer Science Department所属
日立製作所からのVisiting Scholar
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