日本とシリコンバレーの違いは、「intellectual liberty」(知的自由度)。いいアイディアさえあれば、それを実践する知的自由度が多い場所、それがシリコンバレーだ。(インタビュー日:2002年6月13日)
プロファイル
1972年東京大学工学部卒業。日本IBMで大鋸やオンラインシステム設計に参画。その後、同社よりスタンフォード大学留学。81年世界的経営コンサルティング会社マッキンゼ−&カンパニー入社。経営コンサルタントとして世界を舞台に活躍。85年シリコンバレーにAZCAを設立、社長に就任。共著「マッキンゼ−成熟期の差別化戦略」
AZCA社プロフィール−
日米企業が多角化、新規事業をするにあたって企業提携の推進、市場・技術評価、市場参入のアドバイスなどを主要業務とするコンサルティング会社。日本の大手企業、米ベンチャー企業をクライアントに持ち、特にエレクトロニクス、バイオ分野に強いのが特徴。
インタビュー
Q: シリコンバレーに来る前の簡単な経歴についてお聞かせ願えますか?
A: 東京大学の計数工学科を出ました。はじめの一年半はベンチャーをやっていたんです。その頃、1972年当時はベンチャーという言葉はまだなかったのですけど。
Q: そのベンチャーはどのようなことをどのようにはじめたのですか?
A: 丸紅にお金を出してもらって、3人ではじめました。当時の言葉でミニコンと呼ばれていたのですが、基本コンフィギュレーションは4kでした。それを32kまで広げたんですね。その当時のコンソールはテレタイプでした。テープでカッシャンカッシャンとやるものでOSも当時はあませんでした。その後ボストンの会社がミニコン用のOSをはじめて出し、それをインストールしました。それでメカニカルCADシステムを開発し、売るということをやっていました。それを通してコンピュータがこれから大変なことになるな、と気がつき、大会社に入りなおすことにしたのです。
そしてまずIBMに入りました。そのころ1973-1975年は、銀行業界が第二次オンラインをはじめたときでした。でもまだそのためのソフトがなかったので、そのソフト開発を担当していました。その後スタンフォード大学の大学院にIBMの方から留学しました。その頃はちょうどシリコンバレーがシリコンバレーらしくなりつつあるときだったんですね。はじめにシリコンバレーに来たのは高校生の時だったのですけど、その頃はまだのどかでした。1976年に留学したとき、ちょうど半導体などの会社がどんどん出てきた時期でした。それまで私はコンサバティブな日本でメインフレームのコンピュータをいじくってアセンブラでプログラムを書いて・・・、ということをしていた所からこちらに来て、アップルなどのパソコンを見て、大変なカルチャーショックを受けました。
Q: その後は日本に戻られたのですか?
A: 日本に戻ってIBMで分散処理などをいち早く日本に導入しました。1980年から職業を変えて、マッキンゼーに入って、コーポレートストラテジーの仕事をしました。業種はやはりハイテクが多かったですが、企業の多角化などの仕事をしました。日本、ヨーロッパ、アメリカを行き来して、仕事をしていましたね。1983年にこれからはアジア太平洋地域が重要になると考え、ロサンゼルス事務所に移り、アメリカ企業の日本進出、日本企業のアメリカ進出を専門的に手伝い始めました。その後独立しました。
Q: マッキンゼ−をやめて独立したのはどうしてですか?
A: マッキンゼ−の中でロサンゼルス事務所に渡り、ベンチャー企業に接する機会が増えたんです。そのようなベンチャーが日本の担当をしてくれ、という話がでてきました。すばらしい技術を持っていて、日本に持っていきたいが、日本語も話せないし、コンタクトする人もしらないからMr。ishiiやってくれ、という話がよくきたんですね。
でもその時は、マッキンゼ−はベンチャーとのおつきあいがむずかしいので断ったのですが、個人的にはスタンフォード大学で勉強していたときにかかっていたシリコンバレー病が再発してベンチャーと仕事がしたいなぁとおもっていました。またこれからはハイテクノロジーが世界の経済を引っ張っていく、ということを強く意識するようになっていました。マッキンゼーの中でそのような部門を作ろうとしたのですが、その頃まだマッキンゼーも保守的でそれは不可能でした。そこで85年に独立しAZCAを作りました。
Q: 独立後設立したAZCAとはどのような会社ですか?
A: ベンチャーを、日本、アメリカの間で支援して育てる仕事をする会社です。アメリカのベンチャー企業に対してアドバイス、コンサルタントをします。お金集めを一緒にやったり、日本の戦略的パートナー探しも一緒にやるということです。もうひとつは、日本の大企業の手伝いということです。日本の企業の場合は、新規事業開拓を扱います。シリコンバレーのインサイダーとして培った人脈、情報ネットワークを活用して、日本の大企業の多角化および新規事業開発の手伝いをします。
またレジデンシー・プログラムと言って、日本の大企業から毎年一人、1年間若手の人材をインターンシップのような形で預かっています。今年はNTTデータから一人来ています。
Q: インターンシップの形で人を引き受け、実際にどのようなことをするのか。
A: まず、シリコンバレーがどのようなところなのか、アメリカの企業はどういうところなのかを学んでもらいます。2番目にどうすればシリコンバレーのベンチャーとつきあえるのかを身に付けてもらいます。日本のコンサバティブな会社とのメンタルな部分での違いをしっかりと理解することが重要なんです。3番目にそういったベンチャーと実際に交渉して、関係をつくって、日本での新規事業に結びつけていきます。普通は3年かかって人脈を作ったりするところをここで生活しながら1年で習得してもらいます。徒弟制度のような形ですね。VCのところに連れて行って、名刺交換をさせたりとか。
Q: 実際にどのような人がAZCAに就職しますか?
A: 技術のバックグラウンドをもった上で、マッキンゼ−など経営コンサルティングに携わり、MBAを持っている人が多いです。私と同じようなパスの方が多いですね。
Q: その方々はどのようなマインドでいらっしゃるのですか?
A: ベンチャーと付き合ってみたいと思い、そうしたらAZCAがもうやっている、だから来るという方がほとんどです。
Q: その後はみなさんどうなさるのですか?
A: AZCAをやめた(卒業した)後、人によっては、こういう仕事は難しいと感じて、大会社にもどる人もいれば個人でやっている人もいれば、小企業に入りなおす人もいます。半分がアメリカに残り、半分が日本に帰ります。日本法人のベンチャーで働いている人もいますね。
Q: シリコンバレー病という言葉がでてきていましたが、それはどういうことですか?
A: 今までとぜんぜん違う世界ですごいぞ!大変だという意識です。シリコンバレーの企業家精神に満ちたカルチャーにショックを受け、自分もそのような環境に飛び込んで仕事をしてみたいと熱望する気持ちです。
ここは自分がもった新しいアイディアを自由に実験できる、実践できるカルチャーが日本とは絶対的に違います。
「intellectual liberty」(知的自由度)がアメリカにはあります。いいアイディアさえあればよく、知的自由度を多く発揮できる場所がシリコンバレーです。
Q: 日本に「intellectual liberty」がない理由はなんでだと思われますか?
A: 日本はとても古い国だから、文化的なしがらみ、上下関係のしがらみがあります。それと較べて、シリコンバレーではいいアイディアを持った人に誰も文句をいいません。
インフラの違いというものはどうしても出て来てしまうんですね。
Q: インフラというのはカルチャーということですか?
A: インフラをもっとくわしくいうと、3つにかけて考えられます。
一番右側に、法律・金融といった制度的なインフラ、一番左側に、社会的・文化的なインフラ、そして真ん中に草の根的なimplicitなルール・システムがあります。
制度的なインフラは人間が作るものですから、みんなが集まって変えようと思えば変えられるものです。株式公開が変わったとか。魂が入っているかは別として、形だけはその気になれば変えられのですね。ここは政府とかが積極的にやれることだしやらないといけないことですね。草の根的なimplicitなルール・システムはたとえば、大学の講座やスタンフォードMITベンチャーラボなどのように、制度ではないけれど住民が意識的にシステマティックに作ったもので、すぐ変わるかどうかは別として変えられます。一番やっかいなのは社会的・文化的なインフラ。これは変えようと思ってかえられるものではありません。全とっかえしないとなかなか変わらないくらい根深いものですね。あるいは革命などドラスティックなインパクトがあるようなことが起こらない限り変わりにくいですね。
例えば言葉でもでてきますよね。アメリカではどんなにえらい人でも“ハイ、ボブ”などと呼ぶけれど日本ではそうはいかないわけで。実際、日本でこういう仕事をやらずにアメリカでやっているのはカルチャーの違いで日本ではやっていられないからです。AZCAを始める時に日本でVCをやらないかという話もあったのですが、日本では難しいと思いました。企業サポートなどのシステムもないし、文化的なインフラもないですし難しいですよね。でもビットバレーなど色々あって、そういう試行錯誤は重要だと思います。そういうのがなくいきなり成功はないですから。
Q: もしこういうところを変えたらよくなる、という部分があれば教えていただきたいのですが。
A: 学生とか企業家などはある環境の中で生きているのですから、環境が変わらないとなかなか難しいですね。個人レベルの努力で何ができるか、と言えばそういう障壁にも打ち勝って、困難を乗り越えるマインドが必要です。
Q: そういう意味では環境を自分で選んで、ということがよいのでしょうか?
A: 今更日本にこだわっている時代ではないから、新しいことがやりたかったら、やりたいことができる環境に移ってよいのだと思います。日本の環境が変わらないなら日本が悪いだけで残念ですね・・・と。例えば最近京都大学でバイオの研究室がシンガポールに移りましたよね?そういうことは起こっていいわけで。それで人材が外にでていくならば、インフラを整えない政府とか国の責任だと思います。
Q: そのようなインフラにおけるシリコンバレーの特徴はなんだと思われますか?
A: 経済活動がもっとも無駄なく、効率的にロジカルな形で行われているところだと思います。長い目で見ると、理屈どおりにものごとが動いていきます。「日本の企業は長期的に物を見る。一方アメリカは短期的に見る。だから個人の金持ちはたくさんできるけれど、企業の持続性は保てない、よくない」という議論が10年ぐらい前日本でよくおこりました。会社のコンセプトが日本とシリコンバレーでは違います。シリコンバレーではシリコンバレー自体を一つの会社として見るといいと思います。シリコンバレーの中の企業を事業とみなします。シリコンバレーカンパニーの中の企業を見てみると、将来的なポテンシャルのある部署にお金も人も集まります。完全に資本の論理と自然淘汰の論理がなりたっています。そういう意味でもっとも無駄のない形で経済行為が行われているのです。切磋琢磨の世界です。だからシリコンバレーはすごいところなのです。
戦後の日本では会社は大学の延長ですよね。だから大学を卒業したら皆そのまま入りますよね。そしてひとつの小さなコミュニティでした。戦後の会社はそこに就職したら、一生自分がいる場所で生活を保障してくれるものです。会社は誰のものですか?と聞くと、私のものです、という言い方をするでしょ?これは資本の原理でなく、コミュニティという意識です。会社は会社員が住むミニ社会なのですね。アメリカでは、社員は会社に自分のスキルなどサービスを提供して、会社はサービスの対価にお金を支払うシステムです。だから、会社でやりたいことがない、サポートがなければそこをやめるのは当たりまえのはなしです。あるいは他の会社の方がよければそこにうつるのも当たり前です。根本的に考え方が違います。だから人の流動性ももともとあるということになります。効率的なやりかたによって生産性もあがっています。個人も名刺にたよらないですよね。会社でなく、自分が何ができるかが大切。日本だったら会社の名前で仕事をしていますね。こっちでは名刺に頼ることはないです。
Q: シリコンバレーでの日本人起業家が苦労するところはどこですか?
A: 心構えですね。ここで勝負しようとしたらお客さんではだめです。インド人、中国人はこちらに渡ってくるときに母国との綱を切ってきます。ここで成功するしかないんですね。多くの日本人は何年かたったら日本にもどる駐在員。覚悟が違います。
もう一つは資金源。起業するからには資本金が必要。日本人のVCからだしてもらっているケースがほとんどで純粋のアメリカ人から資本をもらうケースはほとんどないです。
Q: その理由はなんなのでしょうか?
A: やはり本当のインサイダーになりきっていないです。日本人同士だったら“あうんの呼吸”で分かったりするものがありますよね。ここで成功しようとしたらアメリカになりきらないといけないんです。中身はすべてアメリカにならないといけないですね。
石井さんの記事
今後の日本に重要なことは、しがらみにとらわれず、ロジックが優先する風土、また自由に発想し、その発想を実行に移し、周囲もそれをサポートする「インテレクチャル・リバティ」のカルチャーを生み出し、定着させることである。
インタビュアー感想 :石戸 奈々子
シリコンバレーというと、アイディアがたくさん生まれる場所、とよく言われます。その理由は「intellectual liberty」だと言われ、なるほど、と思わされました。それと比較すると確かに日本は均一であることが重んじられ、自由度が低い国のように思います。シリコンバレーで働く日本人の先駆け的存在である石井さんの視点から、日本とのカルチャーの違いから生まれるインフラの違いに関して学ばせていただきました。
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