2004年2月28日
JTPAニュースレター、マンスリーインタビューの第4回目は、教育機器や玩具向けの半導体チップを開発するアプローズテクノロジーズで新規事業開拓マネージャーを務める後藤牧子さん。後藤さんは大学を卒業してから思いがけず半導体の世界に飛び込み、『縁』があってシリコンバレーに来られました。アプローズ社はシリコンバレーではまだ珍しい、日本人のチームが創業したベンチャー企業で、後藤さんは共同創業者の一人でもあります。また、映画「ラスト・サムライ」のヒット以降、町で見ず知らずのアメリカ人男性から「あの映画を観たか」と一度ならず声を掛けられたことがあるという後藤さんは、おそらく彼らが後藤さんを見て、(勝元の妹“たか”を演じる)小雪を思い出すからではないかと思われることも、ここに付記したいと思います。


 ――津田塾大学国際関係学科のご出身だとうかがいました。どのような経緯で半導体の設計技術者になったのですか。
 「津田塾の卒業生の中には海外で活躍している人が多いのですが、私は特に学生時代は海外で働きたいといった目的意識がなく、なんとなく過ごしていました。それで卒業が近付いて、『あっ、就職どうしよう』と(笑)。それで、たまたま津田塾のキャンパスから歩いて10分のところに日立製作所の半導体設計子会社、日立マイクロコンピュータエンジニアリング(現・日立超LSIシステムズ、以下日立超LSI)があって、津田塾の先輩が30人ほど就職していました。その先輩方にお会いしたらとても生き生きと仕事をされていたことと、ここに就職すれば引っ越す必要もないなと思ったことが、日立超LSIに入社した理由です。もともと『手に職』を持ちたいと思っていた私は、入社面接ではソフト開発の仕事に携わりたいと希望を伝えました。でも入社すると、どういうわけか半導体のハードの設計部門に回されたのです」
 ――最初は抵抗がなかったですか。
 「私は新しいことに拒否反応を示さない性格で、何事もまずはやってみようと。半導体のイロハは数年間の社内研修でみっちりと学びました。私の配属になったレイアウト設計の部門は、多数のトランジスタを並べて配線したり、配線の間違ったところを見つけるといった『パズル』のような仕事をするところです。私はこんがらがっているものをほどくというのが得意で、この仕事をすぐに好きになりました」
 「1986年に入社してから2年間ほどは手に鉛筆を持っての設計作業でした。しかし、そのころからこの設計業務をコンピューターで行なう電子回路自動設計(EDA)ソフトが世の中に登場し始めました。日立超LSIもEDAを導入することになり、私は88年に、EDAを開発・販売する各社の製品を評価する仕事に就きました。これがキャリア上、大きな転機になったのです」
 ――どういう転機になったのですか。
 
 「当時は多数のEDAソフトメーカーがあって、私はそれぞれのソフトを実際に使ってみて、使いやすいものを社内に本格導入するという役割でした。そして多層配線の設計の部分でArcsysという会社のソフトを購入することを決めたところ、同社からソフトの使い方の研修を受けるためシリコンバレーに招かれたのです。1994年のことでした」
 「研修は米国の半導体メーカーの技術者たちといっしょに受けたのですが、みんながすぐに名刺交換をして仲良くなって、それぞれの会社でどんな半導体開発ツールを使っているかといった情報交換をするのがすごく新鮮でした。秘密主義の日本ではこういうことはあり得ません。シリコンバレーでは会社を離れて個々人がネットワークを構築しようとしていることを実感し、ここで働きたいなという気持ちが芽生えました」
 「そして、私の将来の進路を決める直接のきっかけとなった阪口幸雄さんに会ったのもこの研修期間中でした。阪口さんは当時、日立製作所からの派遣でシリコンバレーにある日立の米国子会社に勤務しており、私の上司の紹介で訪ねて行きました」
 ――阪口さんが転職のきっかけになったのですね。
 「そうです。シリコンバレーでの研修後、阪口さんとは帰国されるたびに情報交換はしていたのですが、約2年後、アルカディア・デザイン・システムズというシリコンバレーのベンチャー企業のEDAソフトを評価していると、阪口さんが日立の米子会社からこのアルカディアに転職したというニュースが伝わってきました。その瞬間、『私もここに入社するな』と直感したのですが、実際に阪口さんは96年9月に『仲間に加わらないか』と声を掛けてくれました。当時、私は日立超LSIの中で『技師』というタイトルが付いていたのですが特に出世欲はなく、アメリカに行きたいなと考え始めていました。そこで、97年1月に休暇を取ってシリコンバレーで2日間の面接を受け、両親など誰にも相談せずに転職を決めました。97年3月20日に日立超LSIを退社し、5日後にはさっそくアルカディアの社員として新EDAソフトを使用する設計の仕事で日立中央研究所に行きました」
 
 ――シリコンバレーに最初に住み始めてどうでしたか。
 「最初の1年はとにかく無我夢中でした。97年5月にこちらに来て、毎日が緊張の連続。よく覚えているのは、金曜日に日本から飛行機で到着して、その日は真夜中の12時まで仕事をし、翌日の土曜日には朝10時に出社したこと。それからもずっと忙しくて朝から晩まで働きづめでした。その年の10月末のハロウィンの日に初めて午後6時という早い時間に会社を出て帰宅したのですが、すごく道が込んでいて車の運転が恐かった思い出があります」
 ――アルカディアには6年間、在籍されました。
 
 「そうです。アルカディアは独自開発のEDAソフトを販売するほかに、このソフトを使って半導体メーカーなどから設計業務を受託する仕事を主幹事業として行なっていました。私は日本の大手エレクトロニクス会社2社のプロジェクトをそれぞれ2年間ずつ受け持つマネジャーの役目を任され、約30人の開発チームのレイアウト設計の責任者でした。しかし、ベンチャー企業で何年も休みなく走り続けるのはしんどく、特にこのうちの1社のプロジェクトが心身ともに相当きつかったので、これが完了したら辞めようと決めました。アルカディアにいた阪口さんはすでに2002年に退社しており、自分で会社を興そうとしていました」
 ――それで、阪口さんの新会社に転職したのですね。
 「いいえ、違います。というか、私も阪口さんの会社(アプローズテクノロジーズ)に出資しているので共同創業者の一人に名を連ねており、結果的に今はアプローズで働いているのですが、アプローズにフルタイムで加わる前にもう1社、別のベンチャーに入社しました。アルカディアを辞める時に、2社から採用オファーをもらいました。1社はすでに上場しているEDA会社で、日本法人の立ち上げをやらないかと声が掛かりました。もう1社はアルカディアの元同僚たちが設立したEDAベンチャーのエイペックスデザインシステムズでした。日本に帰るかどうか迷いましたが、最終的にシリコンバレーにとどまれるエイペックスを選びました。グリーンカードは2002年3月に取得しましたので、転職には問題ありませんでした」
 「エイペックスでの仕事も悪くはなかったのですが、私は自分の可能性をどんどん引き出してくれる仲間たちと仕事をしたいという欲求が強くなり、6か月で再びアプローズに転職しました。アプローズは設立当初、資金が潤沢ではなかったので私の給料を払えなかったことが、直接、同社へ転職できなかった理由でしたが、その後、日本のベンチャーキャピタルなどから資金調達できたので、私も仲間に加われるようになったのです。それでも、最初の会社のアルカディアからエイペックスに転職して給料が20%減り、アプローズに移ってさらに20%減りました。実は今、ちょうど97年にシリコンバレーに来た時の給与に戻ってしまった勘定です。でも、阪口さん(アプローズの社長兼CEO)の何もないところから物事をすばやく立ち上げる能力と、中川隆さん(同社の開発担当副社長)の技術力、そして社内のチームワークを組み合わせれば、必ずすばらしい製品が生み出せると信じているので、気になりません」
 ――アプローズはどんな会社ですか。
 
 「アプローズは、日本人エンジニアの先述した2人が2002年に設立したベンチャー企業で、教育機器、デジタル家電、おもちゃなどに付加価値を与える半導体チップを企画、開発しています。現在の主な顧客が日本メーカーであることから、2003年に日本法人も作りました。コアメンバーは前の会社(アルカディアデザインシステムズ)でいっしょに設計をやっていた仲間で、お互いの力をよく知っているし気心も知れています。現在の社員数は、正社員が7人、契約社員が8人です。」
 「現在の私の仕事内容は、半分がエンジニア、半分がマーケティングと総務全般です。現在開発中の製品の設計が『バックエンド』と呼ばれる工程に入ったら、過去の自分の経験とスキルを生かして、バックエンド設計を委託する会社とのやり取りを担当します。また今後は、マーケティングの仕事のほうに徐々に重点を移していきたいと思っています」
 ――最後に、日本に住むエンジニアの方々にメッセージを。
 「躊躇せずに、またあきらめずに、シリコンバレーに限らず海外に出て欲しい。外に出ると日本の良さも悪さも分かるから。日本で少し仕事をして技能を身につけてからがいいでしょう。日本できちんと教育を受けた設計技術者はこちらの基準から見ても優秀ですから、自信を持って。私も英語や車の運転で苦労しましたが、必ず乗り切れます。『手に職』を持ってこっちで勝負してください!」